写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

野町和嘉はサハラから始めた。(1-4)

2007年01月29日 | サハラ



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未来からタイムマシンに乗って、一瞬に出てきたところが、ニューヨーク5番街でなくて、サハラ砂漠のド真ん中とすると、サハラを知ることとは、コンクリートのビルディングと、砂漠の砂を比較することであり、コンクリートのビルディングが砂になるには、自然の力を頼るしかないが、しかし、砂をビルディングにするのは人間の得意技である。乱暴に言えば、この得意技を分析すれば、人類とは何か、が分かることになる。と言いました。

サハラには、そのビルディングが砂になったと同じような、歴史(記憶)があります。
タッシリ・ナジェールと呼ばれるサハラ中央部山岳の岩陰には、サハラが豊かな草原に覆われていた、紀元前7000年前からの、当時の暮らしを描いた無数の岩壁画が残されています。

タッシリ・ナジェールの岩壁画について、野町和嘉は次のように語っています。
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「緑のサハラの証人たち」
 現在、乾きの極地であるサハラは、今から7000年前、豊かな草原に覆われていた。サハラには当時の暮らしを描いた無数の岩壁画が残されている。なかでもタッシリ・ナジェールと呼ばれるサハラ中央部山岳の岩陰には、5000年以上にわたって描き続けられてきた何千という壁画があり、それらはサハラの歴史を探る貴重な記録となっている。
 私はタッシリ・ナジェールを4度訪れているが、1978年には、ガイド、ラクダ引きたちと共に岩陰に野営しながら、約1カ月に渡って山中をくまなく歩いた。タッシリ・ナジェールとは、トゥアレグ族の言葉で“川のある台地”を意味しているが、現在は深くえぐられた涸河(ワディ)が縦横に走る、およそ水とは無縁の死の台地である。平均標高1500メートルの広い台地上には、深い浸食を受けた砂岩の列柱があちこちに林立している。砂岩の基部は太古の水の浸食で大きくえぐられており、先史人たちにとって格好の住み家であった。壁画はその岩陰に描かれている。
 壁画のモチーフは、紀元前7000年ごろ最初に住みついた狩猟民の暮らしや儀礼が最も古く、その後に来た牛牧民たちが描き続けた無数の牛の絵が大半を占めている。そして乾燥化がさらに進行して登場した、馬に牽かせた戦車の時代、さらに紀元前後から始まるラクダの時代と、およそ5000年に渡っている。なかでもタッシリの暮らしが全盛期であった牛牧民たちの壁画の中には、現代画家にも匹敵する見事なデッサン力を発揮したものも少なくない。だが環境が厳しくなるにしたがってアートの質は明らかに低下してゆく。
 環境の変化に伴って、タッシリ・ナジェールの住人たちはまったく入れ替わっているにもかかわらず、これほど長期に渡って描き続けてきた目的は何だったのだろうか。作品の一部は明らかに信仰対象として描かれた神々であるが、大半は装飾であったと思われる。そして絵が大切に扱われていたと思われるのは、居住空間であった岩陰の壁画に、煙によって煤けて消えた絵が見られなかったことである。
 私は、深い沈黙に覆われた岩陰の回廊を、壁画を捜して終日撮影に没頭し、夜は古代人同然に、岩陰で寝袋にくるまり満天の星空を仰ぎながら寝た。その昔、夜の回廊には牛の鳴き声が響き渡っていたのであろう。ふもとのオアシスで大量に買い込んできたフランスパンは、石のように硬くなっていたが、砕いてスープで戻し奇妙なお粥にして食いつないでいた。水は飲み水以外、顔と手を洗うのに使えるのはカップ1杯切りであったが、季節は11月、台地上は涼しく乾き切っており、身体の汚れはさほど気にはならなかった。終日抜けるような青空のもと、わたしは充実していた。生あるものすべてが滅び去った極限の地で、数千年の時間を超えて息づいている紛れもない人間の記録と一人向き合い、撮影を続けながら、自分は荒地願望症なのだとつくづく思い知った。
「異次元の大地へ」高知新聞社刊より
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岩壁画を残した人々は、紀元前8000年頃から、緑の草原に覆われサハラに定着し、狩猟には弓矢、石斧や石の鏃を生産、家畜の飼育をしていた。紀元前4000年前から乾燥化が始まり、紀元前2000年には今のような砂漠になったと言われます。
簡単に古代人類の歴史を辿ると、氷河期は1万年前に終わり、紀元前8000年~は、人類が狩猟、牧畜、農耕を始める新石器時代になります。紀元前4000年にはエジプト各地に都市国家が成立を始め、エジプト初期王朝は、紀元前3150年~紀元前2686年に区分されています。
こうしてみると、人類の文明が発生する時代に、サハラでは、人類の歴史が終わりを迎えていたことになります。つまり、人間の営みの比喩である「ビルディング」が、「砂」になって行く何万年もの歴史(記憶)を、サハラは経験していたことになります。

何故こんなお話しをするかというと、哲学、思想、宗教は、これまで人間中心に書かれていて、無機物の動向にはさほど気をとめていないと思われるからです。科学の進歩により、暮らしが豊かになり、その代償として地球温暖化が進み、結果、人類が住みにくい環境になってしまう。と、科学が警鐘を鳴らしています。人類には恐ろしい予想ですが、とすると、仏教の輪廻で生まれ変わると、生まれ出てきた所が恐ろしい地球ということになってしまいます。
砂が草地やビルディングに、そしてまた砂にもどってゆく循環が、無機物の輪廻であるとすると、有機物である人間の輪廻としっかり結びついていますので、その長い時間や変化のリズム、感覚、その有り様について、科学だけでなく、哲学や宗教も深く考えなければならないと思います。死後に行くと言われる天国や極楽が、自動車やパソコンもないビジョンとして語られ、行きたくないと思う以上に、異常気象の地球には輪廻して生まれ変わりたくないと思ってしまいます。

サハラ砂漠にあって、自然の死の相貌を感じるとすれば、それがサハラの歴史の記憶ではないかと思います。人間の歴史ではなく、砂や岩、青空と太陽、月と星空が主役となる、無機物の歴史(記憶)なのです。その中にいると、砂をビルディング変えようとする(あるいは、岩壁に象の絵を描き残そうとする)人類の根元的な意志も確認できます。つまり、宇宙のビッグバンが限りなく未来に遠ざかる運動であると同じように、未来へ方向性を持った行為が人類の生きる証であり希望であること。それが善への漸近線上にあれば、大いにめでたいと言うことになります。


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野町和嘉はサハラから始めた。(1-3)

2007年01月22日 | サハラ

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石英粒子の砂 (C)Copyright 2005 Kazuyoshi Nomachi. All Rights Reserved.

野町は、今、サハラの砂にレンズを向けている。
目をあげると、青空に太陽。
そして、360度地平線まで、赤褐色の砂丘がうねり続いている。
サハラ砂漠のランドスケープには、それしかない。

青空は、宇宙につながって無限。
太陽は、人間の能力では表現できない色で輝いている。
砂丘の造形は、風が創ったものだろうが、今は無風。
だから、空間は無音。吐く息が最大の音になる。

陰は光から、光は視覚から、視覚は自分。
匂い。写真からは想像できない。

以上で、サハラ砂漠の説明のほとんどは済んでしまう。

自分のこと、話すことは沢山あるが、
でも、一人だと言葉を発する必要がない。

日射しは熱いが、遮ると暑くはない。
手で掬うと、灼熱の太陽に焼かれた赤褐色の砂粒が、掌を焼き、指からこぼれ落ちる。
サハラの砂は、無機物。人間は有機物。無限につづく青空は、何に分類するのだろうか。

写真から、感じたままを話して行くと以上のようになる。

野町和嘉の写真は、自己の「原点にもどれる写真」と言われます。
サハラ砂漠の写真を見ながら、21世紀に生きる人類の自覚で、続きを考えてみよう。

水と食料があれば、不毛の砂漠でも、生物として生きて行ける。
若い女性が一人いれば、子孫を残せ、数が増えれば、何千年何万年後には、ファミリーがアメリカ合衆国程になる夢を持てると思う。
孤独は理性を浸食し自己破壊に導くが、人間だけが持ちうる宗教があれば、克服できるのではないかと思う…。
人類は今までそうして来たではないか。

死を考えてしまう。
しかし、自分の生まれた時と場所のことを、忘れた記憶から掘り起こせば、生まれ変わって、今ここに生きていることが分かってくる。何も恐れることはない。
人類は今までそうして来たではないか。

人間の記憶(脳)には、人類発生以来からの記憶(情報)が、総て畳み込まれているという。脳は、一分一秒、五感で感じたままの記憶情報を、どんなフォーマットなのか定かではないが、大脳をスルーし、無意識に、脳のハードディスクに記録しているという。死の瞬間には、走馬燈のように、糸巻きをとくように記憶が現れ出て来て(ハードディスクが暴走するように)、その様子を、心としての大脳は、唖然として眺めているという。

ここまで来ると難しくなるが、深部まで進めないと。サハラの歴史、その何千年何万年もの記憶の琴線を探ることは出来ないと思う。

準備は出来ただろうか、砂漠の大部分を占める砂になってしまった大地のこと、つまり自分を取り巻くサハラ砂漠の無機物と、有機物である人間のことを考えみることにしよう。

サハラの無機物を知ると言うことは、私が未来から、タイムマシンに乗って、一瞬に出てきたところが、ニューヨーク5番街でなくて、砂漠のド真ん中とすると、コンクリートのビルディングと、砂丘の砂の比較と言うことになる。コンクリートのビルディングが砂になるには、自然の力を頼るしかないが、しかし、砂をビルディングにするのは人間の得意技である。乱暴に言えば、この得意技を分析すれば、有機物としての人間とは何か。が分かることになる。
古今の思想哲学、科学、歴史、たぶん宗教も、ここを拠り所にしていて、その違いとは、建築様式の違いであり、コンクリートのビルディング以外の話ではない。だから、科学では、有機物が無機物に変化するのを自然現象と言い、無機物が有機物に変化するのを、今、研究中と言うことにしている訳なのだ。

つまり、有機物である人間とは、「自分はどこから来てどこへ行くのか。」「無機物はどこから来てどこへ行くのか。」の両方を考える者なのだが、そのいずれも、言葉で語ると、こぼれ落ちてしまうものでもあるらしい。つまり道具が不完全なのだ。

サハラ砂漠では、自分を見つめる以外の時間は持てないと言う。
でもそれは、私も含めて、サハラ砂漠で一夜を過ごすことが無かった人が言うことだと思う。
サハラ砂漠に不時着した郵便飛行機のサン・デグジュベリが、満天の星空で過ごした「星の王子様」の夜は、「自分はどこから来てどこへ行くのか。」と「無機物はどこから来てどこへ行くのか。」の両方を考えていたように思う。「人間(有機物)は死を迎え、灰になってしまう。」と「コンクリートビル(無機物)は死ぬと、砂になってしまう。」という対比は、詩的を越えて、人間には耐えられない重さであるらしい。砂漠の乾燥が一神教を生んだと言うのも頷ける話になる。

野町和嘉は、「この耐えられない重さ」についてこう語っている。
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砂漠といっても全部が全部美しい褐色の砂と言うわけではなく、礫岩だらけの場所もいっぱいあるんです。そういうどこまでも石ころだらけの茫漠とした広がりというのは、日本なんかでは体験することが出来ない。ところが、人間がそこに住んでいる。何を心の糧に、ここの人たちは生きていられるんだろう。そういう場所で人間が何百年も世代を継いで生を営んでいるということが、何より一番のカルチャーショックでした。
---(彼らの心の糧は何ですか?)
イスラムという宗教ですね。日本には一神教の厳格さは全く分からないし、肌にあわないでしょう? でも、私は実際そこに行ってみて納得しました。つまり、あの不毛の真っ只中にひとつの泉が出現した。つまり、オアシスがある、井戸があるとか、それがあること自体が神の慈悲だということなんですね。広漠としたなかではオアシスに至る道、生存につながる道は一つ、一神教の一つですね。だから、コーランの最初には、「慈悲深く、慈愛あまねきアラーの御名において」という文言が入っているでしょう。それは日本の仏教的な慈悲とは全く違うわけです。一神教の根底を成しているのは、そこに生存できていること自体がが神の慈悲であって、それに対する感謝というか、神と人との関係性だと思うんです。
70年代80年代の日本の物質文明の真っ只中にいた私には全く異質の世界との遭遇で、私の考え方の原点になったと思います。
(明治屋刊「嗜好」別冊麦ブックより インタービュアー・安田容子)
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何かが足りない気がしている。「人間は考える葦である」以外に、何かがなければ、サハラ砂漠の砂が、ニューヨーク5番街のビルディングにはならないと思うのですが…。
…次回へ続く


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野町和嘉はサハラから始めた。(1-2)

2007年01月16日 | サハラ

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今、野町和嘉は、赤褐色の砂丘の上で、シャッターを押している。
30回もサハラに通い続けると、野町は旅行者から、生活者に変化して行く。生活者となると、サハラの歴史、その何万年もの記憶の琴線に触れることになり、満天の星空や、猛暑の褐色の砂丘の上で、日本人としてのDNAの記憶とサハラのそれとが、日々対話を始めることになる。

記憶の琴線に触れると言ったのは、日本人なら田舎の神社にお詣りしたり、お祭りの御輿を担いだりすると、何千年、いやことによると何万年もの祖先から、自分の血に流れているDNAが騒いで、胸がキュンするあの感覚のことなのですが、この胸キュンも、言葉では表せない無意識の領分にあり、日本の風景、例えば富士山や屋久島の縄文杉の写真などから、感じたりする感覚ですが、野町の写真を見ていると、やはり同じ感覚が生まれてくるので、確かに、同じ無意識のパルスが、野町写真にも撮し込まれていると思う。毎日見ていると重いけれど、深夜一人で眺めていると、胸キュンする、そんな魅力なのですが、それを言葉にしようとすると、綴る言葉の間から、写真がこぼれ落ちてしまうのです。

サハラ砂漠と富士山。地球上遠く隔った場所の、ふたつの写真から、同じ胸キュンを感じるのは、撮影者が同じ日本人だから、日本人同士のDNAが共鳴したのか、それとも、地球人のDNAが共鳴したのか。我々現代人は、ロケットで地球を飛び出し、宇宙から地球を眺めることで、約40年ほど前から、地球人という共有視点を持つことが出来るようになりましたが、この地球人も、これまた、綴る言葉の間からこぼれ落ちてしまう感覚なので、この胸キュンを言葉で説明することが、益々難しくなって行きます。

その中でも、我々日本人が一番遠いと感じるのは、サハラ砂漠です。
野町和嘉のサハラの写真に感じるのは、日本人としての私のDNAからの共鳴ではなく、どちらかというと地球人としての私のDNAからの様な気がします。近年の人類学のアプローチは、それを過去に、石器時代をさかのぼり、人類の祖先、新人(ホモサピエンス・サピエンス)が発生した時からの記憶と、さらにその記憶を、生物学、医学の視点から、脳の機能や構造と統合し、科学は解明を進めていますが、果たして、物理学でアインシュタインの相対性理論がしたように、科学で胸キュンを解明することになるのでしょうか。

どうも、野町和嘉写真のことを話すと、胸キュンから導かれるのか、自分の気持や心の内を話すことになってしまって、言葉にすると恥ずかしいことになりそうで、口をつぐんんでしまう。そこで、端折って、野町和嘉の写真は「見てもらえば分かる」。と言うのでは、フランスの思想家ロラン・バルトが、この写真には「プンクトゥム=見る者を突き刺す」がある。と言うのと同じで、ラベルを貼ってわかった積もりになる、つまり言葉に騙されことになるので、用心しなければならない。

私にそなわった、言葉以外のメディア能力で、その無意識のパルスを正確に伝達できないのであれば、説明は、やはり言葉でしなければならないことになるが、人類とは、ネアンデルタール人などの旧人から、突然変異し、新人(ホモサピエンス、サピエンス)となり、大脳の能力を得、言葉を創ったと言われているが、次に、また突然変異し、「新新人」に生まれ変わるとすれば、そこで人類が得るものは、今よりもっと性能が良い、無意識を受発信できる能力であって欲しいと思う。何故そう思うのかは、おいおいお話しするとして、野町がシャッターを押す心の内では、サハラの歴史、その記憶の琴線に触れていたことは確かなように思う。
…次回へ続く


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野町和嘉は、サハラから始めた。(1-1)

2006年12月28日 | サハラ

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野町和嘉のドキュメンタリー写真家としてのスタートは、1972年のサハラの撮影から始まる。
地平線まで続く、柔らかで茶褐色の砂丘の風景は、その後多くの写真家に撮影され、様々なメディアを通じ目にしてきた筈なのに、35年の時間が過ぎて、「野町のサハラ」だけが、原風景として、今も新鮮に心に響いてくるのは何故なのだろうか。

先ず、当時26歳の野町和嘉が、サハラに初めて出会った感激を語っているので見て欲しい。

私がはじめてサハラに足を踏み入れたのは1972年、フリーの写真家としてスタートして1年後のことだった。フリーになった当初、メシのために撮影していたのはスタジオでのモデルやタレント、そして様々な商品といった、もっぱら商業写真であった。
 ドキュメンタリーに転身するきっかけとなったサハラとの出会いは、友人たちに誘われたヨーロッパ・アルプスへのスキー・ツアーであった。ツアーを終えてパリで解散したのち、友人のひとりとポンコツ車を購入して、スペイン方面に気ままな旅に出てみようということになったのである。そこで、地図を買って眺めているうちに、スペインの南に北アフリカが広がっていて、その内陸が広大なサハラ砂漠であることにあらためて気づいた。ヨーロッパとアフリカを隔てるジブラルタル海峡は、フェリーでわずか1時間半。
 渡ってしまえば、舗装道路がサハラの真っ只中にまで通じているではないか。映画「アラビアのロレンス」で砂漠に魅せられて以来、“地平線に立ってみたい”という強烈な願望を抱いていた私たちの旅の目的地は、迷うことなくサハラになった。
 モロッコの東部を南下してアルジェリアに入る。走るにつれ乾きは徐々に激しくなり、剥き出しの大地のスケールと空の蒼さに圧倒された。そしてアルジェリアに入って2日目に、想像を絶する砂の海の真っ只中に私たちは立っていた。風に流れる砂は茶褐色の極限の粒子で、手ですくってみると砂金と見まごう美しさであった。
 砂と岩と天空の星々。空白の地平のなかに突如出現する緑したたるオアシス。そして砂の囚われとでもいうべき人々の強靭な生きざま。こうして異次元世界の虜にされた私のサハラ通いが、その翌年から始まるのである。
(高知新聞連載記事「異次元の大地へ」より) 


その後、野町のサハラ行きは、毎年数ヶ月から一年を滞在し、今までに30回程になる。写真撮影は、昼は猛暑から、日の出前や、早朝の2時間、夕方の2時間になるが、その時の話。


日が出る前は寒い。そして全く音がない。広大な沈黙の空間です。小鳥がさえずるわけでもない。夜は満天の星空です。夜中にトイレに起きて空を見ると、天の川が東西に流れていたのが、南北に大きくうねっている。正に宇宙空間です。ああ、地球が回っているんだなと。そういう音一つ無い空間に、今たった一人自分しかいないという時間の流れを体感すると、日本での日常では意識したこともなかった自分の中の何かが呼びさまされますね。
(明治屋刊「嗜好」別冊麦ブックより インタービュアー・安田容子)


このような孤独な経験を重ねることで、野町の写真は、旅行者の写真から、生活者の写真に変化して行った。生活者となると、何千年ものサハラの歴史、その記憶の琴線に触れることを意味し、満天の星空や、猛暑の褐色の砂丘の上で、日本人としてのDNAの記憶とサハラのそれとが、日々対話を始めることになった。

そして何故、30回も通い続けなければならなかったのか、ここに、これからお話しする、その後の野町和嘉「写真」の秘密も、隠れているように思う。
…次回へ続く


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