先回、「仏教」は「言語思考」と対峙する存在である。とお話ししました。しかし、仏教は多くの仏典で語られ、真言などもあるので、「言語思考」そのものではないかとも思えるのです。他方、禅では、「不立文字」とか「教外別伝」など、真理は「言語思考」の外にあると言っています。どちらが真実なのでしょうか。例えると、入場券を買って映画を見ていたら、途中で、これは本編でなく予告編であると言われるようなもので、真実が書いてあると思い読んでいたのに、違うの?。ここから分からなくなって、仏典(予告編)の紙背に、何かがあるのでは、と思いを巡らすことになるのです。これを何十年、あるいは、一生続けることもあるのです。暗夜行路です。
そう仕向けたのだよ。と、仏典の著者の思う壺なのかも知れませんが、果たして紙背を想像させることが仏典の本意のなのでしょうか。このような想像を続ければ、「言語思考」の外にある真理に近づくことになるのでしょうか。パソコンのマニアルを読むような理解で、済まないものなのでしょうか。
一言で言うと、済むと思います
何故なら、仏教は「言語思考」を、「合目的的」な存在と捕らえているからです。
仏教の目的は「成仏」ですから。その手段としてです。
「祈り」と「言語思考」、仏教にとってどちらが大事かというと、仏教は、はっきり、「祈り」と言います。極端に言うと、「仏典」をどれだけ沢山読んでも、「言語思考」で瞑想を重ねても、「祈り」には敵わないのです。
何故なら、「言語思考」を止めさせるために「言語思考」を使って啓蒙をしている。つまり、麻薬の撲滅PRを麻薬中毒患者にやって貰うような、まことに合理的な話として説明できるからです。
仏教は、何故こんな方法を取ったのでしょうか。その一つは、私見ですが、紙と文字は、そのメソッドとしての「言語思考」。音としての「言葉」。ビジュアルとしての「字」。がセットになったメディアであり、2000年前頃の仏教勃興期、その当時、今日のTV、インターネットと同じように、最先端のメディアであたからではないかと考えます。
仏教には顕教と密教があります。密教は、「即身成仏」つまり、現世に於いて成仏する方法を開示していますから、人間皆、死んだ先は分からない。などの無形な話ではないので、「言語思考」が思考する対象になると思いますので、密教で話を進めることにします。
空海の言う「即身成仏」とは、「生きながらに仏になる」つまりミイラになるような、おどろおどろしいことではありません。
「仏」を外に瞑想し、内の「身」もまた「仏」と同じであると瞑想し、その二つを同化融合させること。つまり「即身成仏」することです。「即身成仏」したことを、他者に示す必要がなければ、誰もそれとは分かりません。また、ミイラになってそれを示すというのは、今日では薄気味がられるだけで、良い方法とは言えません。
「仏」とは何か。「身」とは何か。なぜ「即身成仏」を目指すのか。はここではお話ししませんが、曼荼羅やマントラ、印、護摩とは、「仏」を外に観想したり、内に「身」を瞑想するためのツールです。いわばパソコンのOSやアプリケーションのようなもの。と考えれば理解が易しくなります。
つまり「身」の中で、「言語思考OS・アプリケーション」を駆使している生き物。それを紙と文字が生まれた2000年前から今日まで、思考や理解の仕様として来たのが人間である。と言えます。また、パソコンはお金を払って購入しますが、「言語思考OS・アプリケーション」を動かすマシーン機能は、「身」に生まれつき具わっていて、後天的に教育で、「言語思考」OSが組み込まれさらに強化されてきた。といっても過言ではありません。犬は、「臭覚」に優れたOSとアプリケーションを持つ生き物です。ですから「言語思考」OSとは、カット&ペースト出来ません。
「即身成仏」とは、正に「言語思考」OSをインスツールされたパソコン(身)を解体して、新しい異次元のパソコンに乗り換えることとあまり変わらないのではないでしょうか。異次元のパソコンとは、現次元のパソコンでは見えない(走らない)のがミソ、というより「言語思考」OSの限界(仕様)なので、「即身成仏」とは、それを逆手に取った「言語思考」の限界をよく知る者の表現方法なのです。
新しいパソコンが家に来て、スイッチを入れ、ジャーンと画面が出てきたときの快感は、「大楽」と言われる、密教で解脱が成った時の体験とよく似ているのではないでしょうか。でも私には「大楽」は、「言語思考」でなければ得られない解脱である。とは思えないのです…。
2000年の歴史をもって、先人が積み重ねてきた苦労を茶化すような言い方をしましたが、現代の日本、それも仏教を胡散臭く敬遠している若者や、コンピューターが分かる者への説明には、親切な表現ではないでしょうか。もし、このブログが博士論文だとしたら、そのように書く。つまり、2冊目の仏典が誕生すると言うことになります。「言語思考」は取捨選択をして真実を一つに集約するツールとしては、都合が良いのですが、真実は一つではなく無限にあると考え、真実を語るのには万巻の仏典が、これまでも、またこれからも、増え続けるというのが仏教の方法なのです。「仏教」は「言語思考」と対峙する存在である。と考える、もう一つの理由がここにあります。
仏教がこれからも有用であり続け、また、仏教の教えとは「変化し続け、前に進むこと」であるなら、「身」「口」「意」の三密ではなく、「身」「?」「意」 or 「身」「口 +- ?」「意」の探求が、「言語思考」に限界を感じている科学との協調からも、望まれることではないでしょうか。こうして見ると、無限の真実を表現するには、野町和嘉の「祈りの写真」もいいね…。と思えませんか?


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野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ
そう仕向けたのだよ。と、仏典の著者の思う壺なのかも知れませんが、果たして紙背を想像させることが仏典の本意のなのでしょうか。このような想像を続ければ、「言語思考」の外にある真理に近づくことになるのでしょうか。パソコンのマニアルを読むような理解で、済まないものなのでしょうか。
一言で言うと、済むと思います
何故なら、仏教は「言語思考」を、「合目的的」な存在と捕らえているからです。
仏教の目的は「成仏」ですから。その手段としてです。
「祈り」と「言語思考」、仏教にとってどちらが大事かというと、仏教は、はっきり、「祈り」と言います。極端に言うと、「仏典」をどれだけ沢山読んでも、「言語思考」で瞑想を重ねても、「祈り」には敵わないのです。
何故なら、「言語思考」を止めさせるために「言語思考」を使って啓蒙をしている。つまり、麻薬の撲滅PRを麻薬中毒患者にやって貰うような、まことに合理的な話として説明できるからです。
仏教は、何故こんな方法を取ったのでしょうか。その一つは、私見ですが、紙と文字は、そのメソッドとしての「言語思考」。音としての「言葉」。ビジュアルとしての「字」。がセットになったメディアであり、2000年前頃の仏教勃興期、その当時、今日のTV、インターネットと同じように、最先端のメディアであたからではないかと考えます。
仏教には顕教と密教があります。密教は、「即身成仏」つまり、現世に於いて成仏する方法を開示していますから、人間皆、死んだ先は分からない。などの無形な話ではないので、「言語思考」が思考する対象になると思いますので、密教で話を進めることにします。
空海の言う「即身成仏」とは、「生きながらに仏になる」つまりミイラになるような、おどろおどろしいことではありません。
「仏」を外に瞑想し、内の「身」もまた「仏」と同じであると瞑想し、その二つを同化融合させること。つまり「即身成仏」することです。「即身成仏」したことを、他者に示す必要がなければ、誰もそれとは分かりません。また、ミイラになってそれを示すというのは、今日では薄気味がられるだけで、良い方法とは言えません。
「仏」とは何か。「身」とは何か。なぜ「即身成仏」を目指すのか。はここではお話ししませんが、曼荼羅やマントラ、印、護摩とは、「仏」を外に観想したり、内に「身」を瞑想するためのツールです。いわばパソコンのOSやアプリケーションのようなもの。と考えれば理解が易しくなります。
つまり「身」の中で、「言語思考OS・アプリケーション」を駆使している生き物。それを紙と文字が生まれた2000年前から今日まで、思考や理解の仕様として来たのが人間である。と言えます。また、パソコンはお金を払って購入しますが、「言語思考OS・アプリケーション」を動かすマシーン機能は、「身」に生まれつき具わっていて、後天的に教育で、「言語思考」OSが組み込まれさらに強化されてきた。といっても過言ではありません。犬は、「臭覚」に優れたOSとアプリケーションを持つ生き物です。ですから「言語思考」OSとは、カット&ペースト出来ません。
「即身成仏」とは、正に「言語思考」OSをインスツールされたパソコン(身)を解体して、新しい異次元のパソコンに乗り換えることとあまり変わらないのではないでしょうか。異次元のパソコンとは、現次元のパソコンでは見えない(走らない)のがミソ、というより「言語思考」OSの限界(仕様)なので、「即身成仏」とは、それを逆手に取った「言語思考」の限界をよく知る者の表現方法なのです。
新しいパソコンが家に来て、スイッチを入れ、ジャーンと画面が出てきたときの快感は、「大楽」と言われる、密教で解脱が成った時の体験とよく似ているのではないでしょうか。でも私には「大楽」は、「言語思考」でなければ得られない解脱である。とは思えないのです…。
2000年の歴史をもって、先人が積み重ねてきた苦労を茶化すような言い方をしましたが、現代の日本、それも仏教を胡散臭く敬遠している若者や、コンピューターが分かる者への説明には、親切な表現ではないでしょうか。もし、このブログが博士論文だとしたら、そのように書く。つまり、2冊目の仏典が誕生すると言うことになります。「言語思考」は取捨選択をして真実を一つに集約するツールとしては、都合が良いのですが、真実は一つではなく無限にあると考え、真実を語るのには万巻の仏典が、これまでも、またこれからも、増え続けるというのが仏教の方法なのです。「仏教」は「言語思考」と対峙する存在である。と考える、もう一つの理由がここにあります。
仏教がこれからも有用であり続け、また、仏教の教えとは「変化し続け、前に進むこと」であるなら、「身」「口」「意」の三密ではなく、「身」「?」「意」 or 「身」「口 +- ?」「意」の探求が、「言語思考」に限界を感じている科学との協調からも、望まれることではないでしょうか。こうして見ると、無限の真実を表現するには、野町和嘉の「祈りの写真」もいいね…。と思えませんか?


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