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成仏の方法(10)ー 中沢新一著「レンマ学」を読んで…(2) ー

2022年03月15日 | 成仏について

中沢新一著「レンマ学」を読んで…(2) 

前回からの続きです。

これからのお話しは、「レンマ」の側から眺めて、ロゴス(言葉・言語・言語思考)を分析したいと思います。

分析の公正を期すには、ロゴスとレンマ以外の第三の意識・知性があれば、その知性の判定で、ロゴス的には真に公正となるのですが、後でお話しする様に、仏教ではそれが可能になる道筋もあるようなのですが、とりあえず、今は「レンマ」の方法で「ロゴス」を分析していきたいと思います。

しかし当然、このブログは言葉なので、「レンマ」を「ロゴス」に翻訳して、言葉で伝える事になります。しかし、「レンマ」は、時間性を持たず、非線形ですから、筋道を立て論理を通す(線形)ことが苦手ですので、「ロゴス」の翻訳は、非論理的で難しい文章になることをご容赦ください。先に、中沢新一著「レンマ学」をお読みいただき「レンマ」の感覚をロゴス的に体得すればより理解が進むと思いますので、その方法もお試し下さい。

 

その方法をお話しします。

「アーラヤ織」が人間の意識の根底にあって、そこではロゴス的知性とレンマ的知性とが直交補構造で合成体をなしています。我々の日常は、ロゴス的知性を現実意識として使い、レンマ的知性を「無意識」と考えてきました。両者は直交補構造にありますので、ここではレンマで思考している合間に、直交して「点」で現れる時間性のあるロゴスに乗り移り、感覚に残るレンマの痕跡を言葉で記述し、終ると再びロゴス線上に現れる「点」のレンマに飛び乗るというような方法です。

これは、禅の坐禅の方法に似ています。仏教に共通のこの瞑想方法は、ひたすらに心を鎮めていると、不意にレンマが現れ、それに飛び移ると、瞑想の状態に入れます。修行とは、日常意識(ロゴス)を徹底的に排除してレンマ三昧の境地に入ることであり、その出入りの繰り返しを自在にしてこの身に実現するためには、坐禅、念仏、護摩などの修行があります。

空海の室戸岬の御厨人窟での修行で明星が口に飛び込んできたのを見て開眼した。など過激な瞑想修行の結果も語られています。

しかし、レンマが剥き出しのままに、ロゴスの日常生活を営むのは危険です。また、人はアーラヤ織の生き物ですからレンマのみで生きるのも不可能です。ロゴス的知性とレンマ的知性との合成体をなすアーラヤ識でバランスを学ぶ事をしなければなりません。

臨済録の普化やチベットの死者の書、ゾクチェンの虹の身体などがそのバランスの消息を伝えています。

 

レンマとロゴスはもともと合成体ですから分離は難しく、これらの修行は二つの完全分離が目的ではなく、あまりにもロゴス化してしまった現実意識にレンマの真の存在を気づかせるために、あえてレンマを剥き出しにして見せるためなのです。

 

そして幸いにも仏教ではそんな修行が成就するとやがて菩提心という意識が発露してきて、レンマとロゴスの調和ができるようになると教えてくれます。

 

また苦しく激しい修行や長い坐禅瞑想をしなくても、レンマを獲得する方法もあります。レンマは元々から自身に備わっているものだから、忘れていたものを簡単に思い出す様にすればレンマに入れるという教えもあります。

現実には、中沢新一著「レンマ学」を読み、ロゴスでレンマを理解する方法もあります。しかし、理解できたと思っても、一度ロゴスを離れ、レンマを体験し、さらにロゴスでもレンマでもないたぶん第三の立ち位置で、二つを俯瞰しながら学ぶことをしなければ、たぶんロゴスもレンマも理解することは出来ないのではと、ロゴスの意識は思ってもいるのです。

 

レンマを体感するには、つまり、意識をロゴスからレンマに切り替えるのには「存在」の意識を消さなければなりません。この「存在」の感覚が意識に現れると、ロゴスは独自のシステムで働きます。「事物を並べて整理する」がそれになります。「並べる」には前後のものを調べそれらの違いを明らかにしなければ並べられません。そこではロゴスの二項分類(選択)が自動的に働き、「存在」の意識が発生し、先と後に二つの「存在」を分類します。そしてそこには時間も発生します。レンマは、無時間性ですから、時間が発生すればその意識はレンマではなくなります。

 

「存在」は、必ず二項分類(選択)のシステムで発生します。

例えば、「明るい」という存在は「暗い」があって初めて「存在」が成立します。貴方がいて私がいます。貴方がいなくても、「その他大勢の人々」と「私」の二項分類(選択)で、私の「存在」が発現します。

人類が滅んで私一人になっても、「滅んだ人類」と「私」との二項分類(選択)で、私の「存在」が発現しています。でも「私」がいなくなったらどうなるのでしょうか。

お気づきのように、この話の中にはもう一つの眼差しが存在しています。全人類が絶滅してもその人類と私を同時に眺め認知している超越的な第三者の眼差しです。言語思考(ロゴス)は、二項分類(選択)で「存在」を発現させるのではなく、超越的な第三者を加えた、三項分類(選択)で「存在」を発現させているのです。

「神」と「人」の関係も同じです。超越的第三者の眼差しで「神」と「人」の存在を区別認知しています。しかし「神」は全知全能永遠普遍なので、超越的第三者とは「神」なのでは?。

この疑問で人は、彫刻の神像は見えても、真の「神」の存在は認識出来なくなってしまいます。

キリスト教では「人」は神になれませんから、認識を失った人は「神」を仰ぎ見る真の眼差しも失ってしまい、神への畏れが発生してしまうのです。これはロゴス(現実意識)が破綻する畏れでもあるのです

しかし仏教の場合、「成仏」が最終目的ですから、「人」は、「仏」(=全知全能永遠普遍の「神」)になることができます。しかし、自分が仏になってしまうと「私」と「仏」の二項分類(選択)の関係が消滅してしまいます。また、仏が神のように超越的第三者だとすると、ロゴス的には、さらに「仏」も「私」居なくなってしまい「超越的第三者」つまり「仏=超越的第三者」のみが残ることになります。これは極楽世界と言うことでしょうか。聖書のキリスト教では神への畏れでしたが、言葉(ロゴス)で書かれた仏典では、そうなってしまいます。

つまり、言葉(ロゴス)が表す「神」や「仏」の「存在」では、存在を指し示しているとしても、手に触れて直には感じられない抽象の何かであり、別の認識手段を用いなければ真実は実感出来ないことになるのです。

 

全く、レンマをロゴス(言葉)で説明すればするほど、困難の深みに入っていってしまいます。ここまで読んでこられた方は何人いるでしょうか。この艱難辛苦を避ける方法を書いてきた筈なのに困難に嵌るとは、言葉の魔物に捉えられてしまったようです。

 

でも仏教では、ロゴス、レンマの二つの意識・知性の他に未知の意識があると言っています。

未知と言っても、ロゴスが説明分類できないので未知のという事になるのですが、毎日毎時、我々自身が直接ビンビン感じている何かなのです。それについてをお話しします。

 

第三や第四の意識・知性

曼荼羅図には、二種類あります。

一つは大日如来を中心に放射ツリー状に描かれる「胎蔵界図」です。これは仏典(ロゴス)の記述をもとに、能力と作用の違いにより、仏達を二項分類(選択)でビジュアル化し現出させたものです。ロゴス中心の現実意識・知性で成り立つている今の我々の社会の有り様と変わりありません。

もう一つは、九つの升目に区切られた「金剛界図」です。上段の三つの升は、ロゴスとレンマが並存しているアーラヤ識状態を説明しています。しかし二段目、三段目になるとタイトルの説明や解釈は一応はあるのですが何が描いてあるのかが良く分かりません。制作者(画家)は、仏典の記述を読んではいるようなのですが、制作者自身もよく分からないで描いているようなのです。

金剛界曼荼羅図

説明や解説によるとレンマの事を描いているようなのですが、どうもそうではなく、この二段目、三段目は、ロゴスやレンマとは違う第三第四の別の意識・知性の存在を指し示しているように思えるのです。

ロゴスとレンマを区別して並べるだけではどうも仏教的ではない。と言っているようなのです。冒頭にお話しした「一つの頭脳には、二つの種類の意識・知性がある」ではなく「多くの種類の意識・知性がある」ということではないでしょうか。こう考えた方が、仏の永遠無限無量の意味が良く分かりこれまでの理解の障害が消えてしまうようなのです。これは量子論を借りて、対象を観測した時に初めて意識の種類が分かる。と言うような、人間には難しい智解が必要なのかも知れません。

ロゴスとレンマ、それらが合成しているアーラヤ識を「ロゴス」で説明する場合、行司役である身内のロゴス部屋所属の「超越的第三者」を持ち出さなくても、これら意識達(多分複数ある)を行司役にすればうまく説明が出来るのではないでしょうか。

どうも、人間の意識・知性(ロゴスと現実意識)は、三つのこと同時に考えることが限界で、三つ目もあやふやなのですが、四つを同時にとなると全く出来なくて、金剛界図の九つの升を同時に意識思考するなど全く不可能で、ここに描かれている新しい意識・知性に頼らなければ真の理解はできないと感じるのです。

そして、ロゴスの限界を超えてレンマへ、さらにその新しい意識・知性をも身近に感じる。これが成仏への早道のようにも思うのです。

そう考えると、成仏への道は外にあるのでなく身の内にある。という先達の教えは本当のようなのです。

次回はいよいよ、三密の「身」つまり「身体」と「空」の関係。さらに仏教的知性・意識と言われる「レンマ」との関係についてもお話ししたいと思います。

 


成仏の方法(10)ー 中沢新一著「レンマ学」を読んで…(1) ー

2022年03月02日 | 成仏について

中沢新一著「レンマ学」を読んで…(1)

 

「成仏」を思う時、このブログでは、これを意識し思考する「知性」が、それに適うものであるかどうなのかを、ずっと考えて来ました。

我々は、日々、雑事であれ、深刻な事柄であれ、家族や友人、恋人のことであれ、社会や政治、法律、科学、哲学、宗教であれ、全てのことを、頭脳の一つの知性・意識で考えていると思っています。そして他人も、同じ一つのスタイルで意識・思考をしていると思っていて、お互いのコミュニケーションや共感、同意も、当然にその同じ一つの機能から生まれると思っています。

これは、幼少の頃から家庭や社会の教育過程の中で、科学的常識として、「人には頭脳が一つあり、そこには一つの人間らしい固有の意識、思考、知性がある。」と教えられてきたからで、これが一般常識化し、疑うことなく皆が了解させられています。

 

しかし、中沢新一著「レンマ学」では、一つの頭脳には、二つの種類の意識・知性があると言っています。

それは、「レンマ」と「ロゴス」の二つの意識・知性です。

 
次の記述があります。

… 

レンマは、「ロゴス」と対比される。ロゴスはギリシャ哲学でもっとも重視された概念であり、語源的には「自分の前に集められた事物を並べて整理する」を意味している。思考がこのロゴスを実行に移すには言語によらなければならない。人類のあらゆる言語は統辞法に従うので、ロゴスによる事物の整理はとうぜん、時間軸に従って伸びていく「線型性」をその本質とすることになる。

これに対してレンマは非線形性や非因果律性を特徴としている。語源的には「事物を丸ごと把握する」である。ここからロゴスとは異なる直感的認識がレンマの特徴とされる。言語のように時間軸に沿って事物の概念を述べていくのとは異なって。全体を一気に掴み取るようなやり方で認識を行う。仏教はギリシャ的なロゴスではなく、このレンマ的な知性によって世界をとらえようとした。

中沢新一著「レンマ学」(14~15頁から)

= これは、当ブログでお話しをしてきた「粗雑な意識」とは「ロゴス」であり、「繊細な意識」とは「レンマ」のことと同じです。また「事物を並べて整理する」も言語思考の「二項分類(選択)」のことと同じで、分類し選択することで並べが可能になるので、それぞれ置き換えて読んで頂ければ、「レンマ学」と同じことをお話ししていることになります。

 

また次の記述、

そこでレンマ学が目指すこところはこうなる。いままでに人類の得たレンマ的知性の本質をめぐる最高の哲学的表現は、大乗仏教の縁起の論理によってもたらされた。だが残念なことにこれは長いこと発達を止めていた。それに代わって人類の知性は無意識のうちに、現代科学の領域でレンマ的知性の蘇りを図っている。

中沢新一著「レンマ学」(18~19頁から)

= ここでは、仏教的知性=レンマ的知性である。と言っていることになります。そうすると仏教の最終目的である「成仏」も、「レンマ」の知性で理解されることになってきます。

ギリシャ時代以降の歴史の展開で、西洋世界からそのシステムを取り入れた国々、つまり今日ではほとんど全世界で、ロゴス的知性は社会生活上の現実意識としてその主流になっています。しかし一方レンマ的知性は、西洋社会の常識として、表に現れる「意識」ではなく裏に隠れた「無意識」の領域に留められています。

 

 

また、

言語を産出する、アーラヤ織の内部構造は、ロゴス的知性とレンマ的知性との合成体をなしているが、二つの知性形態はじつは直交補構造をなしているということが、そこには示唆されている。

…中沢新一著「レンマ学」(157頁から)

= これは、ロゴス的知性とレンマ的知性の位置関係を述べています。「成仏の方法8」の中で、小津安二郎の映画「秋日和」でお話しした、鑑賞者の2つの意識、山を眺める=「無意識=繊細な意識」と、物語の進行=「現実意識=粗雑な意識」とが、直角に交わり点で接触していると説明した構造と同じになります。

 

 

また、

…純粋レンマ的知性には時間性が入り込んできていない。そのため、法界の諸事物は因果関係で結ばれることはなく、線形的な秩序も発生していない。… (157頁から)

= この記述の後に、同書では続けて、仏教の「華厳五教書章」により、「相即相入」「一即多、多即一」の華厳思考でレンマを詳しく説明しています。

 

このように中沢新一著「レンマ学」を読めば、レンマがわかり仏教の教えの知識も深まります。

 

また当ブログの内容も、「レンマ」と「繊細な意識」、「ロゴス」と「粗雑な意識」の言葉を置き換え読んでいただければ、同じことをお話ししていますので、もっと理解(ロゴスで理解)が進むものと思います。

 
 
この中沢新一著「レンマ学」は、文字で書かれています。他の諸々の哲学書、科学書、文学書、仏教経典などと同じく、これらbooksは、ロゴス(言語)で理解されることを意図しています。

つまりこれらは、ロゴス思考の側からレンマ眺めて、分析、解釈し、ロゴス(文字)に「翻訳」して伝えようとしていることになります。

一方仏教の場合、悟りとは何かを、レンマ的知性(仏教的知性)と思考で、日々理解すること強いています。出家修業では命懸けになったりするのですが、しかし、中沢新一著「レンマ学」を読む者には、命懸けのレンマ思考を強いたりはしません。反対に、ここの作業は「ロゴス翻訳」です。「ロゴス翻訳」とは、ロゴスとレンマの思考を重ね合わせて、ロゴスからはみ出ているレンマの部分は削ぎ落とし、足りない部分はロゴスで補足することで、ロゴス(言葉)でレンマが理解できるように、科学(ロゴス)がもつ安全安心思考で親切な導きをしています。

 
 
ロゴスの性能
 
この「ロゴス翻訳」の方法は、これまでもお話ししてきた、現代とは「言葉での理解が理解の全てになっている。」世界であることに準拠しています。これは「はじめに言葉ありき」《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章》の聖書信仰を通じ世界基準となり深化してきました。「聖書の言葉による思考」以外の思考は内に抑え込まれ、西洋世界では、ロゴス=言葉=現実意識=社会規範=生活規範=科学=法律=教育などの生活全般がロゴス上で処理され、すべての生活システムで「言葉(ロゴス)」が主になるコミュニケーション社会が出来上がってきました。またこれは聖書と一神教の兄弟であるコーランのイスラム世界ででも同じです。

 

仏教の経典も文字で書かれ、説法も言葉で話されますので、同じロゴス思考の状況が生まれています。レンマ理解が主となる仏教にも、ロゴスの論理やシステム色が色濃く反映されいます。

レンマ的知性(仏教的知性)とは、本来は仏教思考の入口の手段であるのに、今では、レンマで思考することが仏教の最終到達目標であるかのように誤釈までされていて、この現象は、今日ネットコミュニケーションを競って取り入れているように、仏典発刊の当時は、books(言葉思考とロゴス=books)が最先端のコミュニケーションツールであったからで、今日もネットリテラシー普及の喧伝をするのと同じく、内容がわからなくても読経を続ければ識字率が高まり仏教も普及すると考えたことと同じです。。

booksは当時のスマホです。そしてコンピュータは、プログラム言語と言われるように、言語思考(ロゴス思考)の拡張から生まれて来ているのですが、しかし今日ネットは、booksの機能をスピード、容量ともにはるかに超えしまい、ネット流の新しい言語思考によって、books流の古い言語思考の駆逐が急速に進んでいます。

そして、ネットの進歩であるAIやシンギラティ、5G、サイボーグなどの技術で、さらにこれからどんな新しい言語思考(ロゴス)が創られていくのか、ロゴスそのものを超えてしまうのかも知れません。しかし新しくなったといえども変わらず旧式のOSで動く言語思考では変化の見当もつかないので、今は、かえってコミュニケーションが不安で曖昧な時代なのかもしれません。

現在のロゴス思考の能力測定基準であるIQも、見直しが必要になってきているのではないでしょうか。それ以上に、途方もなく進歩してしまい、今の人間の頭脳能力では収納できず処理できず破綻してしまうか、あるいはそのために、肉体が突然変化を喚起して新しい人間に変異するか、改良するか、拡張するかそんな肉体の生まれ変わりを迫られることになるかも知れません。それは悟りに向かい、精神も肉体もあらゆる手段を用いて変異してゆこうとする仏教の修行の過程に似てくるのかも知れません。

 

しかし今はまだ、聖書やコーラン、仏教経典の理解も、古い言語思考のbooks(ロゴス)のその言葉での理解があって初めて機能する。これが人類のコンセンサスになっています。

このブログも、言葉(ロゴス)で綴られ、古い言語思考のbooksの言葉で理解することを強いています。

今は、「言葉での理解が理解の全てになっている。」ので、言葉でのみ理解することに誰も疑問は差し挟まず、幼児の会話に始まり大人世界でも、教育の強化で身につけた言語を使う理解のみを、われわれは当たり前のものとして営みを続けるています。

しかし、時々煩わしくなってきませんか。メールを書いたり電話したり、SNSで会話したり、ネットを読んだり、ビジネスをしたり、楽しみにTVや映画を見たり、小説を読んだり、難解な哲学書、法律書、契約書でなくても、簡単に書かれた言葉や文字を読むだけでも、読み終わらないと理解が完了しないその時の遅さに、イライラしたり、疲れて頭が重くなったりしませんか。

同じ人間が書いたものなのに、こんなにも苦痛をもたらし、言葉を読み終わらないと理解が得られないのろまなシステムなんて、本当に誰もが歓迎する優れた人間の機能なのでしょうか。こんな疑問が浮かんでくるのです。

 
 

言語化が「存在」を現出させる。

 

ロゴスには独特の認識方法があります。目や耳や鼻などの五感や皮膚感覚から受けた情報を、「存在」という媒体に変換してから考えるというシステムです。しかし五感や皮膚感覚が送受感して働くにはこの「存在」を必要としません。

道の角から不意に自転車が出てきても、無意識に瞬時に体を捻り避けます。言葉はいりません。その後体験を記憶するのに「横丁の角から出てきた赤い自転車に轢かれそうになったが右に避けた。小学生が乗っていた。」など、言葉にして「存在」化し言語化記憶にします。

後で友達に話す時は、主にその言葉の記憶を脳から引き出し話します。

体験・記憶には二つの種類があります。五感や皮膚感覚が働き、身体が咄嗟に動いて避けた。という言葉が伴わない「運動感覚記憶」と、上記の言葉で覚える「言語化記憶」です。

大まかには、この言語を伴わない筋肉が覚えている「運動感覚記憶」はレンマに、頭脳が覚えている「言語化記憶」はロゴスに分類できます。大まかにはとは、レンマの生態をロゴスが十分に捉えきれてはいないからです。

 

普段、我々の頭にふわっと浮かんできて言葉で説明できる「存在」と感じている事や物は、言葉が創り出した「概念」です。そしてこの「存在」がなければ、会話も生活も科学も社会も哲学も地球もそして「聖書」の神もありません。ロゴスが考える現実生活とは、こんな「存在」だらけでその「存在」を媒体にして認識思考するシステムで成り立っています。

 

では、我々の意識上にふわっと登場する「存在」とはどのようにして生まれてくるのでしょうか。

 

 

何も考えず静かに外を眺めている無意識で瞑想のようなひととき。突然「バサッ」。音に驚き、はっと顔を上げるその一瞬の意識の空白。目の前を音とともに横切る物体。意識をフォーカス、注視。それが羽音を上げ飛び去る「鳥」であると言語化認識する。鳥?。どんな鳥?脳の言語記憶アーカイブの中から、トンビ、若いトンビ、いつも上空を舞っていて、餌を見つけ舞い降りて来たのだ。と言葉の記憶を引き出して、納得する。

(詳しくは…成仏の方法(3)をご覧ください)

 

この一連の動作の中で、「鳥」と言語化認識しロゴスが発動した時に初めて、意識の空白が解かれて「鳥」の存在が発動します。

それまでは、感覚と意識がどんなに高速で働いていても意識に言葉による「存在」は、現れません。無意識状態(レンマ)です。

ロゴスが現われると、それは「ボンヤリしている私」「目の前に広がる見慣れた雨上がりの景色」「若いトンビ」「留守番をしている私」などであった。と、諸々言葉が表わされて、そこで初めて意識上に「存在」が発現しさらに記憶されていきます。

 

この時、言語思考化認識(ロゴス)は、独特の働きをしています。二項分類(選択)の方法です。

言語記憶には、予め「若いトンビ」と「普通のトンビ」の存在があって、その二つから一つを選択して、「若いトンビ」の「存在」を現出させます。見たことのない「何か」だったら、先ず、記憶の中の「存在」と認められているものの中から、それに似ている「様々なカラス」を取り出し、その鳥達と比較し「若いカラス」を選択して、存在を現出させるか、比較するものがないと「様々な鳥」と「見知らぬ鳥」分類で、「見知らぬ鳥」という存在を現出させます。

 

このように物や事は、ロゴスの中で、言葉でラベリングされ記憶され、初めて、知性が対象とする「存在」の姿を現します。

 

日常では、言語記憶へのアクセスが頻繁に行われるので、その方法は自動化され、意識しなくても次々と必要な「存在」は現れ続けるようになります。

しかしここでは言葉とは、月を指差す指であり、月そのものではありません。しかし、言葉(ラベリング)により、時間を止める抽象化が働き、意識は「月」の固有の「存在」を言葉の中に認めるのです。

意識がレンマにあれば、世界を認識、思考するのに「存在」を設定する必要はありません。

さらにレンマという言葉自身も、ロゴスで現出された(翻訳されてた)「存在」の一つであり、指差す指であり、レンマそのものではありません。

 

宇宙の物と事の全てを、全人類は、このような方法で、一つ一つ、存在化、歴史化をして、ラベリングされた知識として、頭脳中に又はbooksやコンピュータ、映像などの外部記録に言語化し記録してきました。そして、ロゴスが主導する現実生活の中では、言語思考が、記録(記憶)の中からこれら「存在」呼び出しあるいは新たな記録(記憶)を創りだし、日々の営みを続けています。

 

こうして科学も哲学も宗教も社会習慣慣習、法律など社会全体、世界全体がロゴスシステムで動くようになり、「存在」だらけの複雑な人間世界と言うクラウドが生まれています。そのクラウドを言語思考のOSで扱うのが今日のロゴス思考なのです。

ロゴスそのものである科学の進歩で生まれたハッセル望遠鏡の宇宙学では、今日も新星が発見され、ラベリングされ流通言語化され、目新しい「存在」が次々と発現しているのです。

 

この背後には、ロゴスと直交補構造にあるレンマの認識や知性も働いています。レンマに反応して動く感覚、肉体、思考、精神も当然にあります。レンマの記憶もあります。ロゴスに翻訳されて言語化される言語記憶もあります。これがレンマとロゴスが共存して働くアーラヤ識での有り様です。

これは、物理学で言えば、ビックバンで物質と反物質に対消失が発生、その対称性の破れで残った物質で出来た全宇宙の理解でもあるのです。

 

しかし、言語が発達していなかった縄文時代は、言語思考が全てを支配していなかった時代は、少し様子が違っていたかも知れません。

縄文時代が気になって仕方がないというのは、この縄文のレンマの記憶が、現代人の抑圧されたレンマ意識に働きかけるからなのかも知れません。

 

 

悩める心

では「言葉での理解が理解の全てになっている」今日で、ロゴスにとって、心とは、また、悩める心とは何でしょうか。

感情や無意識など心理状況は言葉にして表せるから、心は言葉でできている。とします。そこから患者が発する言葉を分析すれば患者の心も分析できるとします。こう考えて進化しているのが、今日の医学の精神分析でありカウンセリングです。言葉をたぐり心の治療を行います。心の中にある物や事を患者が言葉にして表せられれば、病状が分かり、治療の方法もわかる。と言う方法です。

これと同じ方法で分析できる言語(ロゴス)による科学的と言われる社会行動スタイルが、政治・経済・科学・法律など、我々が日々を営むその生活を律する基本思考とされていています。つまり、現実意識=ロゴスになるのです。

 

こののろまな言語思考をベースに、言語思考の拡張機能であるコンピュータの力を借りて、ようやくここまで進んできたロゴススタイルとは、本当に、優れた人間の唯一で最終の機能なのでしょうか。

そして、この状況を考える時、我々は、ロゴス思考でしか分析し考え解決する手段を持っていません。

このままロゴスをロゴス(言葉)自身で分析、批評するのは泥棒が泥棒を裁くと同じで、自己撞着に陥ることにはならないのでしょうか。

 

昨今ようやく、言葉を生業にする一部の文筆家から、薄々感じてはいたこの自己撞着についての発言を始めてきました。仏教はこの問題に、釈迦をはじめに、沈黙で答えてきました。「ロゴス」をツールにする哲学がこの問題に向き合うことはあるのでしょうか。これは論理上は不都合な事なので触らずにおこうとするのでしょうか。物理学では、量子論や対称性の破れ、量子のもつれ、ニュートリノ、超弦理論など、結果が「ロゴス」を逸脱することになるような研究が進んでいます。AIやクラウド、量子コンピュータなど高性能化が進み、「ロゴス」が手にする分析ツールも進歩し、これらの進歩方向は、明らかに「ロゴス」思考の限界を目指しているようなのです。

長くなりました。次回へ続く…