中沢新一著「レンマ学」を読んで…(2)
前回からの続きです。
これからのお話しは、「レンマ」の側から眺めて、ロゴス(言葉・言語・言語思考)を分析したいと思います。
分析の公正を期すには、ロゴスとレンマ以外の第三の意識・知性があれば、その知性の判定で、ロゴス的には真に公正となるのですが、後でお話しする様に、仏教ではそれが可能になる道筋もあるようなのですが、とりあえず、今は「レンマ」の方法で「ロゴス」を分析していきたいと思います。
しかし当然、このブログは言葉なので、「レンマ」を「ロゴス」に翻訳して、言葉で伝える事になります。しかし、「レンマ」は、時間性を持たず、非線形ですから、筋道を立て論理を通す(線形)ことが苦手ですので、「ロゴス」の翻訳は、非論理的で難しい文章になることをご容赦ください。先に、中沢新一著「レンマ学」をお読みいただき「レンマ」の感覚をロゴス的に体得すればより理解が進むと思いますので、その方法もお試し下さい。
その方法をお話しします。
「アーラヤ織」が人間の意識の根底にあって、そこではロゴス的知性とレンマ的知性とが直交補構造で合成体をなしています。我々の日常は、ロゴス的知性を現実意識として使い、レンマ的知性を「無意識」と考えてきました。両者は直交補構造にありますので、ここではレンマで思考している合間に、直交して「点」で現れる時間性のあるロゴスに乗り移り、感覚に残るレンマの痕跡を言葉で記述し、終ると再びロゴス線上に現れる「点」のレンマに飛び乗るというような方法です。
これは、禅の坐禅の方法に似ています。仏教に共通のこの瞑想方法は、ひたすらに心を鎮めていると、不意にレンマが現れ、それに飛び移ると、瞑想の状態に入れます。修行とは、日常意識(ロゴス)を徹底的に排除してレンマ三昧の境地に入ることであり、その出入りの繰り返しを自在にしてこの身に実現するためには、坐禅、念仏、護摩などの修行があります。
空海の室戸岬の御厨人窟での修行で明星が口に飛び込んできたのを見て開眼した。など過激な瞑想修行の結果も語られています。
しかし、レンマが剥き出しのままに、ロゴスの日常生活を営むのは危険です。また、人はアーラヤ織の生き物ですからレンマのみで生きるのも不可能です。ロゴス的知性とレンマ的知性との合成体をなすアーラヤ識でバランスを学ぶ事をしなければなりません。
臨済録の普化やチベットの死者の書、ゾクチェンの虹の身体などがそのバランスの消息を伝えています。
レンマとロゴスはもともと合成体ですから分離は難しく、これらの修行は二つの完全分離が目的ではなく、あまりにもロゴス化してしまった現実意識にレンマの真の存在を気づかせるために、あえてレンマを剥き出しにして見せるためなのです。
そして幸いにも仏教ではそんな修行が成就するとやがて菩提心という意識が発露してきて、レンマとロゴスの調和ができるようになると教えてくれます。
また苦しく激しい修行や長い坐禅瞑想をしなくても、レンマを獲得する方法もあります。レンマは元々から自身に備わっているものだから、忘れていたものを簡単に思い出す様にすればレンマに入れるという教えもあります。
現実には、中沢新一著「レンマ学」を読み、ロゴスでレンマを理解する方法もあります。しかし、理解できたと思っても、一度ロゴスを離れ、レンマを体験し、さらにロゴスでもレンマでもないたぶん第三の立ち位置で、二つを俯瞰しながら学ぶことをしなければ、たぶんロゴスもレンマも理解することは出来ないのではと、ロゴスの意識は思ってもいるのです。
レンマを体感するには、つまり、意識をロゴスからレンマに切り替えるのには「存在」の意識を消さなければなりません。この「存在」の感覚が意識に現れると、ロゴスは独自のシステムで働きます。「事物を並べて整理する」がそれになります。「並べる」には前後のものを調べそれらの違いを明らかにしなければ並べられません。そこではロゴスの二項分類(選択)が自動的に働き、「存在」の意識が発生し、先と後に二つの「存在」を分類します。そしてそこには時間も発生します。レンマは、無時間性ですから、時間が発生すればその意識はレンマではなくなります。
「存在」は、必ず二項分類(選択)のシステムで発生します。
例えば、「明るい」という存在は「暗い」があって初めて「存在」が成立します。貴方がいて私がいます。貴方がいなくても、「その他大勢の人々」と「私」の二項分類(選択)で、私の「存在」が発現します。
人類が滅んで私一人になっても、「滅んだ人類」と「私」との二項分類(選択)で、私の「存在」が発現しています。でも「私」がいなくなったらどうなるのでしょうか。
お気づきのように、この話の中にはもう一つの眼差しが存在しています。全人類が絶滅してもその人類と私を同時に眺め認知している超越的な第三者の眼差しです。言語思考(ロゴス)は、二項分類(選択)で「存在」を発現させるのではなく、超越的な第三者を加えた、三項分類(選択)で「存在」を発現させているのです。
「神」と「人」の関係も同じです。超越的第三者の眼差しで「神」と「人」の存在を区別認知しています。しかし「神」は全知全能永遠普遍なので、超越的第三者とは「神」なのでは?。
この疑問で人は、彫刻の神像は見えても、真の「神」の存在は認識出来なくなってしまいます。
キリスト教では「人」は神になれませんから、認識を失った人は「神」を仰ぎ見る真の眼差しも失ってしまい、神への畏れが発生してしまうのです。これはロゴス(現実意識)が破綻する畏れでもあるのです
しかし仏教の場合、「成仏」が最終目的ですから、「人」は、「仏」(=全知全能永遠普遍の「神」)になることができます。しかし、自分が仏になってしまうと「私」と「仏」の二項分類(選択)の関係が消滅してしまいます。また、仏が神のように超越的第三者だとすると、ロゴス的には、さらに「仏」も「私」居なくなってしまい「超越的第三者」つまり「仏=超越的第三者」のみが残ることになります。これは極楽世界と言うことでしょうか。聖書のキリスト教では神への畏れでしたが、言葉(ロゴス)で書かれた仏典では、そうなってしまいます。
つまり、言葉(ロゴス)が表す「神」や「仏」の「存在」では、存在を指し示しているとしても、手に触れて直には感じられない抽象の何かであり、別の認識手段を用いなければ真実は実感出来ないことになるのです。
全く、レンマをロゴス(言葉)で説明すればするほど、困難の深みに入っていってしまいます。ここまで読んでこられた方は何人いるでしょうか。この艱難辛苦を避ける方法を書いてきた筈なのに困難に嵌るとは、言葉の魔物に捉えられてしまったようです。
でも仏教では、ロゴス、レンマの二つの意識・知性の他に未知の意識があると言っています。
未知と言っても、ロゴスが説明分類できないので未知のという事になるのですが、毎日毎時、我々自身が直接ビンビン感じている何かなのです。それについてをお話しします。
第三や第四の意識・知性
曼荼羅図には、二種類あります。
一つは大日如来を中心に放射ツリー状に描かれる「胎蔵界図」です。これは仏典(ロゴス)の記述をもとに、能力と作用の違いにより、仏達を二項分類(選択)でビジュアル化し現出させたものです。ロゴス中心の現実意識・知性で成り立つている今の我々の社会の有り様と変わりありません。
もう一つは、九つの升目に区切られた「金剛界図」です。上段の三つの升は、ロゴスとレンマが並存しているアーラヤ識状態を説明しています。しかし二段目、三段目になるとタイトルの説明や解釈は一応はあるのですが何が描いてあるのかが良く分かりません。制作者(画家)は、仏典の記述を読んではいるようなのですが、制作者自身もよく分からないで描いているようなのです。
説明や解説によるとレンマの事を描いているようなのですが、どうもそうではなく、この二段目、三段目は、ロゴスやレンマとは違う第三第四の別の意識・知性の存在を指し示しているように思えるのです。
ロゴスとレンマを区別して並べるだけではどうも仏教的ではない。と言っているようなのです。冒頭にお話しした「一つの頭脳には、二つの種類の意識・知性がある」ではなく「多くの種類の意識・知性がある」ということではないでしょうか。こう考えた方が、仏の永遠無限無量の意味が良く分かりこれまでの理解の障害が消えてしまうようなのです。これは量子論を借りて、対象を観測した時に初めて意識の種類が分かる。と言うような、人間には難しい智解が必要なのかも知れません。
ロゴスとレンマ、それらが合成しているアーラヤ識を「ロゴス」で説明する場合、行司役である身内のロゴス部屋所属の「超越的第三者」を持ち出さなくても、これら意識達(多分複数ある)を行司役にすればうまく説明が出来るのではないでしょうか。
どうも、人間の意識・知性(ロゴスと現実意識)は、三つのこと同時に考えることが限界で、三つ目もあやふやなのですが、四つを同時にとなると全く出来なくて、金剛界図の九つの升を同時に意識思考するなど全く不可能で、ここに描かれている新しい意識・知性に頼らなければ真の理解はできないと感じるのです。
そして、ロゴスの限界を超えてレンマへ、さらにその新しい意識・知性をも身近に感じる。これが成仏への早道のようにも思うのです。
そう考えると、成仏への道は外にあるのでなく身の内にある。という先達の教えは本当のようなのです。
次回はいよいよ、三密の「身」つまり「身体」と「空」の関係。さらに仏教的知性・意識と言われる「レンマ」との関係についてもお話ししたいと思います。