インターネットが出現してから、コミュニケーションの方法と機会が大きく変わってしまいました。初めは、文字による発信から始まり、写真、動画、一方向から双方向、マスからナローに、そしてPtoPへと進化し、我々がネット出現の時点で考えていた進化の想像や想定を越え、さらに人智の外へと拡大を始めています。例えば、Googleは10年以内に、人類の全情報をネットでアーカイブできる。で、その先はどうなるの…?、ネットは暴走を始めるのではないか。こうなると、人々は危惧を感じてしまうようです。でも本当は、不安の前に、人間の頭脳から生まれる想像や人智の、その性能のことを、人類の進歩のためには、問題にしなければならないと思うのです。
現代人の想像や人智が発生してくる根元が、主に「言語」から来ていることを理解しなければなりません。
未知のことや新たに出会ったことに、言語のラベルを貼る作業。これが今日、「理解する」ということになっています。つまり分かったことにして、そのラベルを様々組み合わせ言葉を紡げば、コミュニケーションになるというのが、現在の風潮です。
しかし、これは現代だけの風潮でなく、文字が発生して以来の、人類のコミュニケーションやコンセンサスと言われてきた仕組みです。これまでの世界中のコミュニティや国家の発生の膨大な歴史にこれは相当し、今日、その風潮が、インターネットなどメディアの発達により、より顕著になったと言うことです。 大脳が言語機能を生み、その言語能力での抽象、分類、記憶が、人間の「理解する」行為である。と、人類が納得し合意をしたところからそれは始まっています。
では、その文字言語能力が、インターネットというツールを使うと、 想像や人智を越えたところに導かれる、つまり人類を怖がらせてしまうというのはどういうことなのでしょうか。
映画を考えてみてください。一般的な映画は、文字で書かれた脚本があり、それを設計図に制作されます。撮影のセットや役の設定、役者のメークにいたるまで、言語で考えられた以外のものはなく、演出という方法でそれ以外のものを排除します。つまり何であれ写るものは撮すレンズの自由意志に逆らって、写って欲しくないものを外すのが演出であり、時間すら例外ではなく、映画を見る者は、一定時間、映画館の椅子に縛り付けられることになります。つまり脚本という言語の方法で思考されたをもの見届けるために、椅子に縛り付けられることになります。想像がつくように、読書もまた例外ではありません。一冊の本を読み終えるまで、暗い長い時間を経験しなければなりません。楽しい読後は、本当は自分をエンカレッジしなければ実現できないほど、読書とは失われた時間なのです。 つまり暗い玩具なのです
殺人事件のドラマの警察捜査で、24時間を撮している監視カメラの映像が編集され出てきますが、未編集の監視カメラの映像を飛ばし見する方が、ドラマより面白いのではないか、それを覗き見したいと思ったりします。しかし現実生活ではあり得ても、そのドラマは進行し、寄り道を許しません。面白さが言葉からこぼれ落ちている一つの例といえます。(インターネットではそれが可能になったりしますが…)
でも、そうしないと理解してもらえないではないか。人間の頭脳能力は、言語で抽象化しなければ理解できない、つまりそれだけの受容能力しかないので、言語での編集は必要悪なのだ。と、TVあたりから反論がありそうです。
果たしてそうなのでしょうか。
最近の科学や思想、宗教の研究は、理論的行き詰まり閉塞感を打開するため、人間の脳や身体に秘められた、強力な能力を見つけ出そうとしています。そして、それが言語機能の後ろに隠れていることを発見し、言語機能を透明にして、観察してみようとしています。例えば、仏教の仏門に入るや密教の潅頂などは、言語能力を透明にして、その他の能力の存在を発見し育てる修行そのものであり、量子論や相対性理論に始まる、最新の宇宙論、ストリングス理論、生物分子学などは正に人間の秘められた能力、つまり認識を、言葉によって言葉を否定する方法で、進化させる試みに他なりません。仏教が、色即是空、空即是色と、先ず、言語を機能不全にして思考を進めたのと、まだまだ隔たりはありますが、良く似てきています。
そして、その思考を政治や経済に適用し、未来の人類のために、新しい世界秩序やパラダイムを構築しようと考える方向も見えています。
今の言葉で、一般的に分かり易く言うと、思考(言語的思考)は、感情に同化されなければならない。と言うことになるのでしょうか。
野町和嘉の写真を見てください。
見えてくるものは「なつかしさ」です。 「なつかしさ」は、確かに「ある」のだが、言葉からこぼれ落ちてしまうものの一つです。
(C)Copyright 2005 Kazuyoshi Nomachi. All Rights Reserved.
「なつかしさ」を感じられたでしょうか。感じられたとすればそれが写真の能力です。皆様が肉親の写真から感じる「なつかしさ」は、同じDNAからの共感であり、野町和嘉「写真」の「なつかしさ」は、地球人が共有の「なつかしさ」。その違いです。
言語が伝える以上のことを、写真が伝達可能だと思えたなら、言語の代わりをする記号としての写真用途ではなく、新しい伝達道具として自覚し、写真を撮り、ネットで発信してみてください。そこから大きな可能性が広がってくると思います。
その前に、下記urlから野町和嘉「写真」を、そんな視点で見直してみてください。
野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ
現代人の想像や人智が発生してくる根元が、主に「言語」から来ていることを理解しなければなりません。
未知のことや新たに出会ったことに、言語のラベルを貼る作業。これが今日、「理解する」ということになっています。つまり分かったことにして、そのラベルを様々組み合わせ言葉を紡げば、コミュニケーションになるというのが、現在の風潮です。
しかし、これは現代だけの風潮でなく、文字が発生して以来の、人類のコミュニケーションやコンセンサスと言われてきた仕組みです。これまでの世界中のコミュニティや国家の発生の膨大な歴史にこれは相当し、今日、その風潮が、インターネットなどメディアの発達により、より顕著になったと言うことです。 大脳が言語機能を生み、その言語能力での抽象、分類、記憶が、人間の「理解する」行為である。と、人類が納得し合意をしたところからそれは始まっています。
では、その文字言語能力が、インターネットというツールを使うと、 想像や人智を越えたところに導かれる、つまり人類を怖がらせてしまうというのはどういうことなのでしょうか。
映画を考えてみてください。一般的な映画は、文字で書かれた脚本があり、それを設計図に制作されます。撮影のセットや役の設定、役者のメークにいたるまで、言語で考えられた以外のものはなく、演出という方法でそれ以外のものを排除します。つまり何であれ写るものは撮すレンズの自由意志に逆らって、写って欲しくないものを外すのが演出であり、時間すら例外ではなく、映画を見る者は、一定時間、映画館の椅子に縛り付けられることになります。つまり脚本という言語の方法で思考されたをもの見届けるために、椅子に縛り付けられることになります。想像がつくように、読書もまた例外ではありません。一冊の本を読み終えるまで、暗い長い時間を経験しなければなりません。楽しい読後は、本当は自分をエンカレッジしなければ実現できないほど、読書とは失われた時間なのです。 つまり暗い玩具なのです
殺人事件のドラマの警察捜査で、24時間を撮している監視カメラの映像が編集され出てきますが、未編集の監視カメラの映像を飛ばし見する方が、ドラマより面白いのではないか、それを覗き見したいと思ったりします。しかし現実生活ではあり得ても、そのドラマは進行し、寄り道を許しません。面白さが言葉からこぼれ落ちている一つの例といえます。(インターネットではそれが可能になったりしますが…)
でも、そうしないと理解してもらえないではないか。人間の頭脳能力は、言語で抽象化しなければ理解できない、つまりそれだけの受容能力しかないので、言語での編集は必要悪なのだ。と、TVあたりから反論がありそうです。
果たしてそうなのでしょうか。
最近の科学や思想、宗教の研究は、理論的行き詰まり閉塞感を打開するため、人間の脳や身体に秘められた、強力な能力を見つけ出そうとしています。そして、それが言語機能の後ろに隠れていることを発見し、言語機能を透明にして、観察してみようとしています。例えば、仏教の仏門に入るや密教の潅頂などは、言語能力を透明にして、その他の能力の存在を発見し育てる修行そのものであり、量子論や相対性理論に始まる、最新の宇宙論、ストリングス理論、生物分子学などは正に人間の秘められた能力、つまり認識を、言葉によって言葉を否定する方法で、進化させる試みに他なりません。仏教が、色即是空、空即是色と、先ず、言語を機能不全にして思考を進めたのと、まだまだ隔たりはありますが、良く似てきています。
そして、その思考を政治や経済に適用し、未来の人類のために、新しい世界秩序やパラダイムを構築しようと考える方向も見えています。
今の言葉で、一般的に分かり易く言うと、思考(言語的思考)は、感情に同化されなければならない。と言うことになるのでしょうか。
野町和嘉の写真を見てください。
見えてくるものは「なつかしさ」です。 「なつかしさ」は、確かに「ある」のだが、言葉からこぼれ落ちてしまうものの一つです。
(C)Copyright 2005 Kazuyoshi Nomachi. All Rights Reserved.
「なつかしさ」を感じられたでしょうか。感じられたとすればそれが写真の能力です。皆様が肉親の写真から感じる「なつかしさ」は、同じDNAからの共感であり、野町和嘉「写真」の「なつかしさ」は、地球人が共有の「なつかしさ」。その違いです。
言語が伝える以上のことを、写真が伝達可能だと思えたなら、言語の代わりをする記号としての写真用途ではなく、新しい伝達道具として自覚し、写真を撮り、ネットで発信してみてください。そこから大きな可能性が広がってくると思います。
その前に、下記urlから野町和嘉「写真」を、そんな視点で見直してみてください。
野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ