成仏とは、変化です。
そこで成仏の方法とは、変化についてをお話しするこになります。
釈迦の教えで、変化とは、
「因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)」
です。
言葉は縁起で生まれますので、言葉の世界では「そしてそれは変化して止まない。」と表現することになります。(言葉は二項分類(対立)思考ですから、反対の「変化しない」も想定できますが、それで生ずる問題は後述します。)
そもそもこのブログの「成仏の方法」は、老年となり余命の10年、20年を考えるより、死んだらどうなるのかを考える方が合理的である。との思いからスタートしていて、死という変化が避けられないのなら、成仏へ、つまり仏に変化する方が良いのではないか。と思った所にあります。
一般に宗教とは、生きる悩みや苦しみに、救いや癒しを与えてくれるもの。あるいは死者を弔う儀式。と現代人の多くは理解しています。仏教から言えばそれらは方便で、仏教とは、苦に囚われた生を成仏へ導くこと、さらに全ての者や物を仏に変化させること(成仏)、を最終目的にしています。その方法には様々あり、様々な宗派となっていますが、それらは成仏に一歩手前の菩薩が言う「全ての人が成仏しなければ、私は仏にはならない。」の強い意志に支えられています。
言葉は縁起で生まれると言いましたが、言葉で成仏を理解しようとすると、縁起という概念を持ち出さざるを得ない。という、釈迦の工夫(方便)を感じてしまうのですが、すると言葉の二項分類(対立)の思考から、反対の「変化しない」も想定できますね。となって話が複雑になり、様々な問題が発生することになります。しかし釈迦は、ここでは沈黙を選びました。そのため、それ以降、膨大な経典が生まれ続け、その沈黙の意味を言葉で説明する事になるのですが、キリスト教イスラム教の一神教でも、同じ問題は発生するのですが、聖書とコーランの文字で書かれた経典にのみ真理があり、それ以外は正しい教えではないということにしてしまい、真理を言語思考のみで考えることを強いて(はじめに言葉ありき)、言語思考以外を封じてしまいました。
仏教の場合、釈迦の沈黙を考えるには、仏の身になって考えねばならず、そうすると成仏とは何かを考えることになるのですが、その前に、仏教では、それを思考する手段やツールの正体とは何なのかを考えることになりました。
科学の言葉である、意識、感覚、思考、心理、言葉、心、肉体、生物、物体、存在、宇宙、などなど、それらは一体何なのかについて、仏教は、現代の科学に劣らない議論論争で、深い考察を積み重ねて来ています。次はそれらについて見ていこうと思います。
しかしここで、二千余年を越えるこの論議論争主張の全歴史を語るのも大変なので、密教の方法である、「身・口・意」の三密の分類で分析したものが、現代の科学思考からみてもわかりやすいと思いますので、これでお話する事にします。
先ず、「身・口・意」の三密のうち「身」とは、身体のことですが、それについてお話しをします。
ここでいう身体とは、常に「変化してやまない」身体です。
身体というと医学の解剖図が浮かんで来ます。しかし解剖図は静止していますから、「変化してやまない」側からは、位置や形や色、働きなどの情報は、参考になっても、生きて動く身体の真の情報とは考えていません。そして、その分析を担当する意識思考の側も、同じく「変化してやまない」状態ですから、すべてが動きの中で、身体を考えなければなりません。
一方、科学思考は、変化の中で対象を様々に観察分析し、そして言語思考で抽象化することで、現象を静止させ(解剖図にして)、本質を探ろうとします。しかし、そんな静止した変化の残像からは本当の本質は捉えられない。と、「変化してやまない」側は考えるのです。
科学思考の分析は、言語思考をベースにしています。その特徴となる抽象化の作業は、「変化してやまない」対象と、同じくその対象に向かう連続する意識を、一旦停止させて考えます。しかし、それら変化は考え中でも続くので、科学では、その停止で得られた表装(残像)を、再度動かして変化を造り、運動という名の変化にするという、特異な分析方法をとります。停止も変化の一部と考えられますが、それにしても余りにもぎごちなく、変化を変化のまま、生で捉えることを苦手にしているような振る舞い方です。
青空の視界に不意に、飛ぶ鳥が現れて、あれはツバメだ。と言葉が脳裏に浮かんだ時、変化(運動)にずっと対応していた意識が一瞬中断され、ふたたび追従に意識が戻った時には、ツバメはかなり先に飛び去ているのを経験されたことがあると思います。
これは、量子論を読みながら理解しようとする時の経験に似ています。量子力学を理解するのが難しいのは、科学思考のベースとなる言語思考の能力の限界なのですが、もし、相対性理論の前に量子論が盛んになっていたら、もっと簡単に早く科学は進歩していたかも知れません。全体が変化の状態にあり、そのうえ同時に、さらに二つの異なる変化の現象を分析することを強いるような今日の科学の状況では、科学の生みの親であるのろまな言語思考は、さらには科学論文は文字で書かれ評価されもするので、二重の困難を変化の分析に招くことになり、理解と進歩の邪魔をしているように思ってしまいます。
私達は、日常的に、腕を曲げる、お腹が痛い、痒い、疲れた、気持ちが良い、などなど、身体を探ぐり感ずる意識を無意識に働かせています。コーヒーを飲むから腕を曲げようとか、疲れたからフゥーと声を出そう、などと言葉に出しては考えません。お腹が痛いと言葉にする前に意識はお腹に意識のセンサーを働かせていて、手をお腹の患部に当てさせています。
自身の身体への意識は、変化を停止させなくても、このように言語思考を用いなくとも、ストレートに意識できます。お互いに皆が、「変化してやまない」への、このような意識の行使の了解とコンセンサスがあれば、確実に、身体を意識し思考し分析していることになるのではないでしょうか。言葉は、その過程を記録する補助手段の位置にいて、変化の分析に極力関わらない方が良いのではと思います。
密教では、言語思考がベースの停止する意識を「粗雑な意識」、後者の持続し「変化してやまない」ストレートな意識を「繊細な意識」と言っています。「粗雑な意識」とは、社会生活に必要な現実意識ですが、とすると「繊細な意識」とは、現実意識ではない方の意識、つまり無意識ではないかの問があります。現代の科学で無意識とは、意識以外の不明な意識、言語思考では特定できない意識の全般、を言いますので、確かに無意識とは重なる部分が有りますが、しかし「繊細な意識」は、はっきり意識できて、特定できますので、科学が言う無意識とは異なります。
(現代科学と密教での意識の違いについては、次の「口」のページで、詳しくお話しします。)
仏教やヨガ、中国に発祥するタオ(道教)など、東洋思想では、「変化してやまない身体」を、分析の対象にします。そのため、分析のツールは、「繊細な意識」を主に用います。また記録と分類が得意な言語思考の「粗雑な意識」もサポートに用います。
仏教、道教(タオ)、ヨガなど、東洋思想で共通の考え方は、
生ける「変化して止まない」身体とは、「気」が流れている身体である。です。
生きるとは変化して止まない現象であり。それを支える「気」もまた流れる変化です。つまり生きた身体では、変化が常態ですから、変化をどう捉えるかが東洋思想の基本になってきます。
しかし、それを「粗雑な意識」の言語思考で考えるとなると、現象を抽象化し、意識思考を一旦停止させ、名称をつけ整理記憶する、ラベリングの方法を実行することになります。さらに、分析では「変化して止まない」とは反対の「停止」とともに、他者による客観的な実行も必要と考えていて、確かに変化の反対の停止は他者なので、その意味では正しいのですが、停止も変化の一部ではないか。とも考えられるので、言語思考がこれを他者であり客観的とするには少し無理があるように思います。
さらに「変化」を「停止」の状態にして考えるとは、何なのでしょうか。
抽象化で一旦停止させ「変化して止まない身体」を分析するとは、ゴルフの上達本のような記述になります。上達本に習い、身体の動きを真似て再現したとしても、クラブにボールが当たってくれるとは限らないのは、皆んな分かっています。科学の論文とそれを再現し検証する関係にもそれはよく似ています。さらに言語思考(粗雑な意識)がベースになっている我々の平凡な日常生活にも、大なり小なり、このもどかしさが日々纏わり付いています。
このようなのろまな言語思考(粗雑な意識)を身体の分析のツールにするべきかどうかを、仏教は先ず考えるのです。
「変化」を、「変化して止まない状態」で意識する「意識」が必要になってきます。
人間の意識は「変化して止まない身体」を意識することが出来ます。なぜなら「変化して止まない」という言葉で、経験の記憶を残しているからですが、しかし言語思考が直接それを行うとなると、もどかしさが付きまとうので、やはり言語思考以外の「意識」が意識したのだ。となる。そしてその意識により無意識に手をお腹の患部に当てるのだから、それは、「無意識」と同じポジションを与えられることになります。それら意識を総称して「繊細な意識」と呼ぶことにします。
さらに、分析を進めて行くと新たな意識が見つかるかも知れません。そうするとさっそく言語意識は、それにラベリングをして記録分類してくる。つまり科学研究の方法なのですが、しかしここでは、お分かりのように、それが目的にはなりません。
ゴルフの上達本を書いても、皆んながゴルフ上級者になる訳ではないように、この方法では「すべての人が成仏しなければ、私は成仏しない」の菩薩の誓願が叶わなくなるからです。
気(プラーナ)を、背中を走る気道(督脈)から、頭頂の泥丸(チャクラ)まで送り、クンダリーを達成し、さらに気を練り上げて陽の身体に変化させる。真我を得て解脱する。悟りを得て成仏する。などなど、ヨガ、タオ、仏教などの東洋の思想では、意識や呼吸法により「気」を動かせ高め、身体を究極に変容させるのを、目的としています。
この訓練には知識が必要ですが、しかし、このブログは、知識を提供する場ではありませんので、必要に応じて、Googleの検索で知識を探してみてください。
ここでお話ししているのは、全てが「変化して止まない」状態で(停止も変化の一部)、身体を感じ、考え、分析し、記録するにはどう対処したら良いかをお話ししているので、詳細マニュアルではありません。自分に相応しい方法が見つかれば、方法の知識は自然に向こうからやってきます。
こんな風にして身体を究極に変化させる目的は、成仏なのですが、成仏には、三密の他の口・意も「変化して止まない」状態で、究極のものに変化させなければなりません。今までお話しして来た方法、つまり言語思考にも納得してもらいながら共に進めるとなると、これは菩提心の方法になるのですが、まだまだ長い道のりになってきます。
道教やヨガの最終目的である不老不死は、「身・口・意」が究極を達成さえできれば、可能となるのではないか、と思いもするのですが、仏教では、最後になって、「身・口・意」も「変化して止まない」も「空」である。とお釈迦様が言われるので 、困ってしまうのです。「空」は、目的なのか手段なのか。
“因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)”
は、これまでお話ししてきた事ですが、次に、
“因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)”
と続くのです。
「変化して止まない」でいて「空」となると、のろまな言語思考「粗雑な意識」では対応できないことは、これまでのお話でよくお分かりと思いますが、では「繊細な意識」ではどうなのでしょうか。
そのために、次のお話で、口は、「変化して止まない」状態で どんな働きをするのか。を考える事にします。しかし、ここでもこの「空」が、ずっと頭の隅に残り続けます。
そこで成仏の方法とは、変化についてをお話しするこになります。
釈迦の教えで、変化とは、
「因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)」
です。
言葉は縁起で生まれますので、言葉の世界では「そしてそれは変化して止まない。」と表現することになります。(言葉は二項分類(対立)思考ですから、反対の「変化しない」も想定できますが、それで生ずる問題は後述します。)
そもそもこのブログの「成仏の方法」は、老年となり余命の10年、20年を考えるより、死んだらどうなるのかを考える方が合理的である。との思いからスタートしていて、死という変化が避けられないのなら、成仏へ、つまり仏に変化する方が良いのではないか。と思った所にあります。
一般に宗教とは、生きる悩みや苦しみに、救いや癒しを与えてくれるもの。あるいは死者を弔う儀式。と現代人の多くは理解しています。仏教から言えばそれらは方便で、仏教とは、苦に囚われた生を成仏へ導くこと、さらに全ての者や物を仏に変化させること(成仏)、を最終目的にしています。その方法には様々あり、様々な宗派となっていますが、それらは成仏に一歩手前の菩薩が言う「全ての人が成仏しなければ、私は仏にはならない。」の強い意志に支えられています。
言葉は縁起で生まれると言いましたが、言葉で成仏を理解しようとすると、縁起という概念を持ち出さざるを得ない。という、釈迦の工夫(方便)を感じてしまうのですが、すると言葉の二項分類(対立)の思考から、反対の「変化しない」も想定できますね。となって話が複雑になり、様々な問題が発生することになります。しかし釈迦は、ここでは沈黙を選びました。そのため、それ以降、膨大な経典が生まれ続け、その沈黙の意味を言葉で説明する事になるのですが、キリスト教イスラム教の一神教でも、同じ問題は発生するのですが、聖書とコーランの文字で書かれた経典にのみ真理があり、それ以外は正しい教えではないということにしてしまい、真理を言語思考のみで考えることを強いて(はじめに言葉ありき)、言語思考以外を封じてしまいました。
仏教の場合、釈迦の沈黙を考えるには、仏の身になって考えねばならず、そうすると成仏とは何かを考えることになるのですが、その前に、仏教では、それを思考する手段やツールの正体とは何なのかを考えることになりました。
科学の言葉である、意識、感覚、思考、心理、言葉、心、肉体、生物、物体、存在、宇宙、などなど、それらは一体何なのかについて、仏教は、現代の科学に劣らない議論論争で、深い考察を積み重ねて来ています。次はそれらについて見ていこうと思います。
しかしここで、二千余年を越えるこの論議論争主張の全歴史を語るのも大変なので、密教の方法である、「身・口・意」の三密の分類で分析したものが、現代の科学思考からみてもわかりやすいと思いますので、これでお話する事にします。
先ず、「身・口・意」の三密のうち「身」とは、身体のことですが、それについてお話しをします。
ここでいう身体とは、常に「変化してやまない」身体です。
身体というと医学の解剖図が浮かんで来ます。しかし解剖図は静止していますから、「変化してやまない」側からは、位置や形や色、働きなどの情報は、参考になっても、生きて動く身体の真の情報とは考えていません。そして、その分析を担当する意識思考の側も、同じく「変化してやまない」状態ですから、すべてが動きの中で、身体を考えなければなりません。
一方、科学思考は、変化の中で対象を様々に観察分析し、そして言語思考で抽象化することで、現象を静止させ(解剖図にして)、本質を探ろうとします。しかし、そんな静止した変化の残像からは本当の本質は捉えられない。と、「変化してやまない」側は考えるのです。
科学思考の分析は、言語思考をベースにしています。その特徴となる抽象化の作業は、「変化してやまない」対象と、同じくその対象に向かう連続する意識を、一旦停止させて考えます。しかし、それら変化は考え中でも続くので、科学では、その停止で得られた表装(残像)を、再度動かして変化を造り、運動という名の変化にするという、特異な分析方法をとります。停止も変化の一部と考えられますが、それにしても余りにもぎごちなく、変化を変化のまま、生で捉えることを苦手にしているような振る舞い方です。
青空の視界に不意に、飛ぶ鳥が現れて、あれはツバメだ。と言葉が脳裏に浮かんだ時、変化(運動)にずっと対応していた意識が一瞬中断され、ふたたび追従に意識が戻った時には、ツバメはかなり先に飛び去ているのを経験されたことがあると思います。
これは、量子論を読みながら理解しようとする時の経験に似ています。量子力学を理解するのが難しいのは、科学思考のベースとなる言語思考の能力の限界なのですが、もし、相対性理論の前に量子論が盛んになっていたら、もっと簡単に早く科学は進歩していたかも知れません。全体が変化の状態にあり、そのうえ同時に、さらに二つの異なる変化の現象を分析することを強いるような今日の科学の状況では、科学の生みの親であるのろまな言語思考は、さらには科学論文は文字で書かれ評価されもするので、二重の困難を変化の分析に招くことになり、理解と進歩の邪魔をしているように思ってしまいます。
私達は、日常的に、腕を曲げる、お腹が痛い、痒い、疲れた、気持ちが良い、などなど、身体を探ぐり感ずる意識を無意識に働かせています。コーヒーを飲むから腕を曲げようとか、疲れたからフゥーと声を出そう、などと言葉に出しては考えません。お腹が痛いと言葉にする前に意識はお腹に意識のセンサーを働かせていて、手をお腹の患部に当てさせています。
自身の身体への意識は、変化を停止させなくても、このように言語思考を用いなくとも、ストレートに意識できます。お互いに皆が、「変化してやまない」への、このような意識の行使の了解とコンセンサスがあれば、確実に、身体を意識し思考し分析していることになるのではないでしょうか。言葉は、その過程を記録する補助手段の位置にいて、変化の分析に極力関わらない方が良いのではと思います。
密教では、言語思考がベースの停止する意識を「粗雑な意識」、後者の持続し「変化してやまない」ストレートな意識を「繊細な意識」と言っています。「粗雑な意識」とは、社会生活に必要な現実意識ですが、とすると「繊細な意識」とは、現実意識ではない方の意識、つまり無意識ではないかの問があります。現代の科学で無意識とは、意識以外の不明な意識、言語思考では特定できない意識の全般、を言いますので、確かに無意識とは重なる部分が有りますが、しかし「繊細な意識」は、はっきり意識できて、特定できますので、科学が言う無意識とは異なります。
(現代科学と密教での意識の違いについては、次の「口」のページで、詳しくお話しします。)
仏教やヨガ、中国に発祥するタオ(道教)など、東洋思想では、「変化してやまない身体」を、分析の対象にします。そのため、分析のツールは、「繊細な意識」を主に用います。また記録と分類が得意な言語思考の「粗雑な意識」もサポートに用います。
仏教、道教(タオ)、ヨガなど、東洋思想で共通の考え方は、
生ける「変化して止まない」身体とは、「気」が流れている身体である。です。
生きるとは変化して止まない現象であり。それを支える「気」もまた流れる変化です。つまり生きた身体では、変化が常態ですから、変化をどう捉えるかが東洋思想の基本になってきます。
しかし、それを「粗雑な意識」の言語思考で考えるとなると、現象を抽象化し、意識思考を一旦停止させ、名称をつけ整理記憶する、ラベリングの方法を実行することになります。さらに、分析では「変化して止まない」とは反対の「停止」とともに、他者による客観的な実行も必要と考えていて、確かに変化の反対の停止は他者なので、その意味では正しいのですが、停止も変化の一部ではないか。とも考えられるので、言語思考がこれを他者であり客観的とするには少し無理があるように思います。
さらに「変化」を「停止」の状態にして考えるとは、何なのでしょうか。
抽象化で一旦停止させ「変化して止まない身体」を分析するとは、ゴルフの上達本のような記述になります。上達本に習い、身体の動きを真似て再現したとしても、クラブにボールが当たってくれるとは限らないのは、皆んな分かっています。科学の論文とそれを再現し検証する関係にもそれはよく似ています。さらに言語思考(粗雑な意識)がベースになっている我々の平凡な日常生活にも、大なり小なり、このもどかしさが日々纏わり付いています。
このようなのろまな言語思考(粗雑な意識)を身体の分析のツールにするべきかどうかを、仏教は先ず考えるのです。
「変化」を、「変化して止まない状態」で意識する「意識」が必要になってきます。
人間の意識は「変化して止まない身体」を意識することが出来ます。なぜなら「変化して止まない」という言葉で、経験の記憶を残しているからですが、しかし言語思考が直接それを行うとなると、もどかしさが付きまとうので、やはり言語思考以外の「意識」が意識したのだ。となる。そしてその意識により無意識に手をお腹の患部に当てるのだから、それは、「無意識」と同じポジションを与えられることになります。それら意識を総称して「繊細な意識」と呼ぶことにします。
さらに、分析を進めて行くと新たな意識が見つかるかも知れません。そうするとさっそく言語意識は、それにラベリングをして記録分類してくる。つまり科学研究の方法なのですが、しかしここでは、お分かりのように、それが目的にはなりません。
ゴルフの上達本を書いても、皆んながゴルフ上級者になる訳ではないように、この方法では「すべての人が成仏しなければ、私は成仏しない」の菩薩の誓願が叶わなくなるからです。
気(プラーナ)を、背中を走る気道(督脈)から、頭頂の泥丸(チャクラ)まで送り、クンダリーを達成し、さらに気を練り上げて陽の身体に変化させる。真我を得て解脱する。悟りを得て成仏する。などなど、ヨガ、タオ、仏教などの東洋の思想では、意識や呼吸法により「気」を動かせ高め、身体を究極に変容させるのを、目的としています。
この訓練には知識が必要ですが、しかし、このブログは、知識を提供する場ではありませんので、必要に応じて、Googleの検索で知識を探してみてください。
ここでお話ししているのは、全てが「変化して止まない」状態で(停止も変化の一部)、身体を感じ、考え、分析し、記録するにはどう対処したら良いかをお話ししているので、詳細マニュアルではありません。自分に相応しい方法が見つかれば、方法の知識は自然に向こうからやってきます。
こんな風にして身体を究極に変化させる目的は、成仏なのですが、成仏には、三密の他の口・意も「変化して止まない」状態で、究極のものに変化させなければなりません。今までお話しして来た方法、つまり言語思考にも納得してもらいながら共に進めるとなると、これは菩提心の方法になるのですが、まだまだ長い道のりになってきます。
道教やヨガの最終目的である不老不死は、「身・口・意」が究極を達成さえできれば、可能となるのではないか、と思いもするのですが、仏教では、最後になって、「身・口・意」も「変化して止まない」も「空」である。とお釈迦様が言われるので 、困ってしまうのです。「空」は、目的なのか手段なのか。
“因縁で物事(存在、現象)が生じ、そしてそれは変化して止まない。(縁起)(諸行無常)”
は、これまでお話ししてきた事ですが、次に、
“因縁で生じた物事(存在、現象)には実体が無く「空」である。(色即是空 空即是色)”
と続くのです。
「変化して止まない」でいて「空」となると、のろまな言語思考「粗雑な意識」では対応できないことは、これまでのお話でよくお分かりと思いますが、では「繊細な意識」ではどうなのでしょうか。
そのために、次のお話で、口は、「変化して止まない」状態で どんな働きをするのか。を考える事にします。しかし、ここでもこの「空」が、ずっと頭の隅に残り続けます。