おいしい朝ごはん

おいしい朝ごはん食べましたか 私はまだです

バイロイトの指揮台

2005年10月09日 12時30分49秒 | プチサイトから
ワグナーを指揮するならバイロイトが最高だという。

オーケストラピットの広さと深さに贅沢の限りが尽くされている。

こんなに厚みのある音響の劇場は、他には世界のどこにもない。

指揮者にとっての音の至福が、そこにある。

ガリガリ君の夏が続く

2005年10月09日 12時25分47秒 | プチサイトから
夏も下り坂だろうと高をくくっていたら、しっぺ返しをくらった。

やっぱり、まだまだ暑い。本当に暑い。

ここは60円のガリガリ君を齧って、暑さをしのごう。

なんといっても、100円玉を渡して御釣が帰ってくるところがうれしい。

ただし、カキ氷なので食べ過ぎには注意しよう。

カキ氷系では、明治の宇治金時も、天辺のコンデンスミルクがグーだ。

井村屋の小豆アイスも、硬くて冷たいが良質の小豆で、根強い人気だ。

井村屋の小豆物はどれも水準以上だ。

ことに水羊羹は井村屋に限る。

ほどほどの値段の割りに、丁寧につくってある。



妖怪大戦争によると、小豆は体にとてもいいらしい。


20億ドルの水売買  NHKの番組から

2005年10月09日 12時23分53秒 | プチサイトから
乾燥地帯は灌漑により穀倉地帯 に変えることが出来る。

しかし、そのために川の水に異変が起きているという。

中国の黄河でも水不足がおきている。

アメリカでは水の分配をめぐり連邦政府も関心を示す。

そしてついに、アメリカでも例のない20億ドルの水売買が成立した。

農業用水が都市用水として買われていったのだ。

農家には金が払われ、その代わり農家は農地を休耕する。

このとき、耕作地の土壌が変わっていく。

農地が昔の砂漠に戻っていくのだ。


緑の砂漠が広がっている

2005年10月09日 12時22分51秒 | プチサイトから
今、日本の森が苦しんでいる。

保水力のない森が増えている。

山村が衰えると山の緑も衰える。

以上はNHK教育放送の受け売りです。

だけども、台風が去ったからといって、若い世代にとっては、忘れてはいけないことかもしれません。



我が亡き後に洪水は来たれかし。



という言葉は未来を考えない発想なのだ。

走る弁護士の奇跡   誰が為に君は走る

2005年10月09日 12時21分25秒 | プチサイトから
師が走るのは師走です。

ところが士は八月でも走ります。

確かに人が生きるということは、昨今では、人生を走っているようなものです。

私のように、カタツムリのように生きていたのでは文字通り、バスに乗り遅れてしまいます。

けれども、先生のことです。深いお考えの上で走られていることと思います。

そうであるからこそ、先生の走られるお姿に目が離せないのであります。

N響第一コンサートマスター篠崎史紀

2005年10月09日 12時20分53秒 | プチサイトから
たまたま、先生のバイオリンとお話と黄色いネクタイに出会うことがでました。

ウィーンのバイオリンの音楽の雰囲気を一瞬にして伝えられる至芸と遊び心をもたれる先生の演奏を生涯忘れることは無いでしょう。

コンサートの終わりに、先生は手渡されたバラの花束を、やさしく、鮮やかに、最前列に座っていた、かわいらしい、けれどもおそらくはバイオリンを毎日学んでいるであろう女の子に投げ渡されました。

はっしと薔薇を受け取った女の子にとっても、N響コンサートマスターから渡されたバラの花束の記憶は生涯のこることでしょう。

私にとっても薔薇の花が最も美しく見えた瞬間でした。

妖怪大戦争   仁義ある戦いはありえるか

2005年10月09日 12時20分22秒 | プチサイトから
水木先生の作品を愛読していた私にとって、感動的な超大作です。

境港に旅してみたくなりました。鬼太郎の銅像にさわってみたいです。



スピリッツに高橋さんの写真が載っているというので、コンビニで確認しましたが、やはり、映画のなかの高橋さんの方が輝いていたようです。



宮部先生の主人公の担任役は、壷にはまっていて、最初は気がつきませんでした。先生は、やはり、小説家としても、女優としても、現役であらせられるとの感を強くいたしました。



菅原紋太様は、テレビニュースで広島での活躍が報道されておられ、根強い人気に安心しておりますが、やっぱり映画館で見る紋太様は最高でした。作品に厚みと奥行きが加わっていました。



隠れたアイティムは麒麟一番絞りでせう。

この映画を見終わったおとうさんの相当数は当日麦酒を召し上がったことでせう。

私は、小豆ご飯、小豆のおこわが食べたくなりました。

紋太様の影響でせう。

大人であること

2005年10月09日 12時18分52秒 | プチサイトから
この世で起こりうる全てについて想定の範囲内にすることは難しい。

それでも何とか対応するのが大人というものだ。

しかし、それにも限度というものがあるはずだ。

だけど、大人であるということは、そんな場合であっても、きちんと対応するということなのだ。

やっぱり僕は大人になれない。

酔っ払いの書き込みは何時だって辻褄が合わない

2005年10月09日 12時17分24秒 | プチサイトから
かといって、素面のときの書き込みなら辻褄が合っているということにはならない。

要するに、私の書き込みは、何時だって、辻褄が合うとは限らない。

別に自慢するほどのことではないけどね。



相撲の土俵の俵の位置を、取り組みの最中に動かしたら、それはもう相撲とはいえないだろう。

しかし、仕切り直しの間であるならば、俵の位置を動かしたとしても、一向にさしつかえないではないか。

まだ、相撲は始まっていないのだから。

いや、仕切り直しが行われているときには、既に相撲は始まっているまではないか。



そんなことを考えているうちに千秋楽はとおに終わっていた。





大人とは孤独なものである

2005年10月09日 12時16分51秒 | プチサイトから
責任を取るとは、単独で取るということである



連帯責任は、民法用語である



その時、人は孤独になる



たとえようもなく孤独になる



けれども、孤独の谷を潜り抜けない限り



大人としての自立はありえない



もっとも自立していない大人がふえてはいるが



彼らは大人の仮面を被っているだけなのだ

最近お酒に目覚めてしまった

2005年10月09日 12時16分13秒 | プチサイトから
酒が旨いなとど思っていなかったが、いつの間にか味を覚えてしまった。

それって、いいことなんだろうか。

大人になったというべきか。

おとなというのは、自分が全ての責任を負わねばならない。

他人に責任転嫁して恥じないなら、それは子供だ。

酒の味を覚えるとは、大人の人間になることだ。

それは、やはり、恐ろしいことでもある。



だげと、意識的にでも、大人にならなくてはならない。



それが男だ。



全ての責任は自分にあるのだ。



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