喜劇として誕生したベニスの商人は、やがて悲劇としても高い評価を受けることになる。
しかし、ここではまず、喜劇としてのベニスの商人について語りたい。
喜劇とは、父親の理不尽な制約を乗り越えて自分の意志で決めた婿殿と婚姻にたどり着く娘たちの物語のことである。
ポーシャが父親の財産を相続するためには、彼が決めた理不尽な婿選びの方法で婿を選ばなくてはならなかった。
莫大な財産は相続したいけれども、意に沿わぬ殿方と添い遂げるのは気が進まない。ポーシャは巧みな弁舌で好みでない男には間違った箱を選ばせる。
シャイロックの娘もまた、恋の道に障害があった。
恋した男は異教徒だった。
父が異教徒の男との結婚を許してくれるはずがない。
娘は父を捨て家を出た。
その娘の指には母の形見の指輪があった。
指輪は人が作った最初の円環であり、永遠の約束を意味する。
しかし、おとことおんなの約束ほど脆い約束はない。
正しい箱を選んだ男にポーシャは指輪を渡した。
どうか誰にも、この指輪を渡さないで。
男は答えた。
誰にも、この指輪を渡さない。
しかし、男は不実なものだ。
この男は、翌日には、請われるままに指輪を手放してしまう。
いったい誰がこの男の指輪を受け取ったのだろうか。
ローマの法学士はなにゆえに、その男の指輪を求めたのか。
男はなにゆえに約束を破ってまで指輪を手放したのか。
約束を記録したものを契約という。
契約は古代では石に刻まれ、この当時では羊皮紙に書かれた。
商業都市であるベニスにとって契約の実現はなによりも尊重されなければならなかいことだった。
まして公証人立会いのもとでなされた契約である。
ところが、ローマからやってきた法学士は契約の実現に協力しなかった。
彼は正義を緩め慈悲を説く。
慈悲と正義は相容れぬものか。
シャイロックは正義を求めた。
しかし、おそらくシャイロックにはわかっていた。
異教徒の法廷に立って裁判に勝てるわけがない。
けれども、たとえ裁判に勝てずとも、異教徒であろうとも、少なくともこの町ベニスでは法廷に立つことはできる。
ならば、及ばずとも一矢報いたい。
映画はシャイロックの娘が海辺にたたずむシーンで終わる。
娘の指には、かつて母が父のシャイロックに渡した指輪があった。