太田龍氏の
天皇破壊史 (単行本) には玉鉾神社のことが書かれてある。
旭形亀太郎が
玉鉾神社を建立した。・・・と。
この話は真実だ。
実際にこの神社は存在する。
が、しかし太田氏の著書の中には間違いがある。
・・それは“旭形亀太郎がアサヒビールの創業者”という所。
創業者は鳥井駒吉と言う人物だ。(アサヒビールに確認済み!社史を調べてもらった。)
本社ビルに行こうが、大阪の工場に行こうが、亀太郎の肖像画も写真も何もない。
亀太郎は勤皇力士体の力士だった。
参考:
星ヶ嶺、斬られて候:幕末維新力士伝④ 新選組に捕えられた旭形亀太郎
新選組証言録 『史談会速記録』が語る真実 (PHP新書) (新書) ・・この本にも亀太郎の名は出てくる。
これが先ず一点。
それから、大本の口伝に拠れば大本の出口ナオが神社の命名者だとしているが、
ワシも太田氏と同様、嘘くさいと考えてる。
この神社の由緒記には、
「創立者が民間人(旭形)だったから、“創建が難航した!”」とあるが、
ワシはそうは思わない。
伊藤博文が自分の犯した罪(孝明天皇刺殺)がバレるのを恐れていたためでと考える・・・。
そして、漸く認可が下りたのが明治32年の事だ。
伊藤博文はまだ生きているでは無いか!??これはおかしいぞ!
太田氏の著書には書いていないが、何故認可されたか判った!!
此処に祀られているのは、孝明天皇以外にもう一人、
「ホンダワラノカミ」が御神体として鎮座されているのだ。
そうだ、「孝明天皇」では絶対に許可されないので、
ここからはワシの推論だが・・
旭形亀太郎は、苦肉の策として、「ホンダワラノカミ」を御神体として許可願いを提出したのではないか!?
そして、「ホンダワラノカミ」を表に出して祀りながら、
実は裏で「孝明天皇」を祀っていたのだ。
尚、正式に「孝明天皇」が御祭神として登記されたのは、
昭和29年5月の事だという・・。
次の謎は、資金の出所だ。
旭型は何を生業として、土地と社を手にしたのかが謎なんだ。
そこでこの本のP111を読まれるが良い!
皇族の参拝者が書かれてある!
明治33年5月
小松宮彰仁親王殿下公式参拝。
仁孝天皇の猶子になってるので孝明天皇とは義兄弟か?
同年8月
伏見宮貞愛親王殿下
孝明天皇の養子になった人。
同、中山二位局(
中山慶子の事)代拝、
大原重朝正式参拝(
大原 重徳(おおはら しげとみ:孝明天皇に重用された公家)の3男)
これらの皇族・華族たちが参拝しているところを見ると、
その資金(10万~30万円)は、これら孝明天皇と縁のある皇族が出したのではないだろうか・・?
亀太郎と皇族との密約で、「ホンダワラノカミ」神社を申請し、許可を受ける。
既成事実を作ってから、実は「孝明天皇」を祀っているとして、
宮内省へ献上を願い出たが却下。
内務省へ公認願を提出したが、明治31年に不許可!
伊藤が圧力をかけているのだ!
伊藤はこの神社の建立に対して激怒したに違いない。
既に、皇族・家族が参拝をしてしまっている・・・。
そしてもう一つ、ワシが考える恐ろしい推論!
それは初代宮司の旭形亀太郎は明治34年3月、
突如没する!!
これはもしかしたら、
暗殺では無いか?!!
2代目宮司、旭形亀之助(息子?)は何年続けたのかは知らんが、
亀太郎の未亡人は、宮司の死後“周囲から幾多の苦難を受け”
『怖い、怖い』と言っていたらしい。
恐らく某かの脅迫を受けていたのであろう・・・?(推論)
昭和39年7月に、3代目宮司光彦氏が家族養子で来られた経緯はワシは知らぬが、4代目幸彦氏に拠ると、明治時代に神社に保存されていた「宝物」は、
殆どが消えて無くなっていたらしい。
大正以後に、町の名士(郵便局長か?)が神社に返却したのだそうだ・・。
もしかしたら、町の人が伊藤博文の暴挙から、孝明天皇の品々をお守りしていたのではないだろうか・・?
ズタズタに寂れ、3つ程あった神殿、社は、
伊勢湾台風で壊滅状態になったと言う。
現在は、本殿ひとつだけが存在するのみ。
社務所には初代旭形亀太郎の写真が現存する。
昭和40年11月には孝明天皇の曾孫に当たる
東久邇盛厚(もりひろ)氏(皇籍離脱後)が正式参拝されている。
伊藤は明治天皇の父君であるはずの孝明天皇を祀らせなかった。
これはどういうことか?
孝明天皇は、(岩倉・)伊藤に殺された証拠ではないか!?。
(その子“睦仁”も殺された。)天皇家は乗っ取られた!!
歴史の真実が、
伊藤に因って書き換えられてしまった事実を
我々は、真正面から受け止めようではないか・・・。