ゆく春を近江の人と惜しみけり
確か『去来抄』に載っている一句。高校時代に習ったことを思い出し訪ねてみたくなり春の一日湖国までドライブ。今回もまだ寒いので車中泊はお預け。
琵琶湖大橋を渡っていると前方の山の山頂が白い。「何だろう」と不思議に思い尋ねたところ「北比良の暮雪ですよ。近江八景の一つで、今の季節にしか見られない景色ですよ」とのこと。写真を一枚だけ撮って見ましたが、ものの見事にピンぼけ。数枚撮るんだったと後悔。
ピンぼけでちょっと恥ずかしいが。
『浮御堂』
着いたときに団体様と一緒に。待つことしばし、靜になってから境内を散策。春のうららかな日射しと湖面を渡る春風にまさしく「ゆく春を惜しむ」心地に。
狙って見ましたが失敗。
30数年前に来たときに比べ綺麗に整備されていました。そりゃそうだよねと近江の人が言うでしょう、多分。
近所のお菓子屋で名物の落雁を買い求めようと行ったら、残念定休日でした。
『三井寺』
三井寺か近江神宮か迷ったが、近江神宮の漏刻は次回に見るとして三井寺へ。
境内は予想通り満開の桜、しばし春に浸りながら境内を散策。

三枚目の桜はコントラストを狙って見たのだが、果たして…。
平日と言うこともあって、それほどの人出でもなくのんびりと散策を。金堂の脇にある
閼伽井屋の井戸は天智・天武・持統天皇の産湯の井戸とか。耳を澄ますと湧き出る泉の音が。天智天皇の時代から続く音かと思うと悠久の空間を感じさせられる。ただ隣に居た老人が「私が子供の頃はもっと大きな音がしていたのですよ」と。あと数百年で涸れてしまうのだろうか。
『義仲寺』
ナビに義仲寺をセットし出発。細い道を進み「義仲寺」到着。地図を見ると通ってきた道は旧東海道とか。
写真をアップしたいが、大きすぎて受け付けてくれない。なぜ・なぜ。同じカメラで同じ様に撮ったのに。研究して後ほどアップを。
木曽殿と背中あわせの寒さかな
残念ながら背中あわせではないけれど、義仲と芭蕉の墓がひっそりと並んである。
二人それぞれの生涯とはかけ離れた簡素で小さな墓であるが、かえってそれが彼らの歴史に刻んだ足跡を偲ばせるように思われるのだったが。
木曽殿の墓石の傍には、更に一回り小さな碑が。「巴御前」の碑が寄り添うように建っている。平家物語に描かれた勇壮な面影はなく、義仲を慕い続けた薄幸の女性を思わせるたたずまいであった。
小さな境内の奥に日本浪漫派の巨人「保田與重郎」の墓を発見。「え、なんでこんなところに。彼は奈良の櫻井の人で、戦後その地で隠棲していたはずなのに。」と疑問が。受付の方にお聞きし、パンフレットを頂いてこの寺と保田氏の関係の疑問が氷解。
戦後隠棲していたときに彼は荒れ果てた義仲寺の復興に力を注いだとのこと。保田氏は義仲の生涯に大きな浪漫を見たのだろうか。保田氏は戦後厳しく批判されたが、文学史上大きな足跡を残した人に違いはないはず。文学を学んだ者としてしばしお参りを。
確か『去来抄』に載っている一句。高校時代に習ったことを思い出し訪ねてみたくなり春の一日湖国までドライブ。今回もまだ寒いので車中泊はお預け。
琵琶湖大橋を渡っていると前方の山の山頂が白い。「何だろう」と不思議に思い尋ねたところ「北比良の暮雪ですよ。近江八景の一つで、今の季節にしか見られない景色ですよ」とのこと。写真を一枚だけ撮って見ましたが、ものの見事にピンぼけ。数枚撮るんだったと後悔。

『浮御堂』
着いたときに団体様と一緒に。待つことしばし、靜になってから境内を散策。春のうららかな日射しと湖面を渡る春風にまさしく「ゆく春を惜しむ」心地に。



30数年前に来たときに比べ綺麗に整備されていました。そりゃそうだよねと近江の人が言うでしょう、多分。
近所のお菓子屋で名物の落雁を買い求めようと行ったら、残念定休日でした。
『三井寺』
三井寺か近江神宮か迷ったが、近江神宮の漏刻は次回に見るとして三井寺へ。
境内は予想通り満開の桜、しばし春に浸りながら境内を散策。






三枚目の桜はコントラストを狙って見たのだが、果たして…。
平日と言うこともあって、それほどの人出でもなくのんびりと散策を。金堂の脇にある
閼伽井屋の井戸は天智・天武・持統天皇の産湯の井戸とか。耳を澄ますと湧き出る泉の音が。天智天皇の時代から続く音かと思うと悠久の空間を感じさせられる。ただ隣に居た老人が「私が子供の頃はもっと大きな音がしていたのですよ」と。あと数百年で涸れてしまうのだろうか。
『義仲寺』
ナビに義仲寺をセットし出発。細い道を進み「義仲寺」到着。地図を見ると通ってきた道は旧東海道とか。
写真をアップしたいが、大きすぎて受け付けてくれない。なぜ・なぜ。同じカメラで同じ様に撮ったのに。研究して後ほどアップを。
木曽殿と背中あわせの寒さかな
残念ながら背中あわせではないけれど、義仲と芭蕉の墓がひっそりと並んである。
二人それぞれの生涯とはかけ離れた簡素で小さな墓であるが、かえってそれが彼らの歴史に刻んだ足跡を偲ばせるように思われるのだったが。
木曽殿の墓石の傍には、更に一回り小さな碑が。「巴御前」の碑が寄り添うように建っている。平家物語に描かれた勇壮な面影はなく、義仲を慕い続けた薄幸の女性を思わせるたたずまいであった。
小さな境内の奥に日本浪漫派の巨人「保田與重郎」の墓を発見。「え、なんでこんなところに。彼は奈良の櫻井の人で、戦後その地で隠棲していたはずなのに。」と疑問が。受付の方にお聞きし、パンフレットを頂いてこの寺と保田氏の関係の疑問が氷解。
戦後隠棲していたときに彼は荒れ果てた義仲寺の復興に力を注いだとのこと。保田氏は義仲の生涯に大きな浪漫を見たのだろうか。保田氏は戦後厳しく批判されたが、文学史上大きな足跡を残した人に違いはないはず。文学を学んだ者としてしばしお参りを。