JUN ROAD Ⅲ ~ラテン系半島人~

アナタがかつて 描いた「その日」共にHuntしてまいりましょう !

人の死を他人事で終わらせるな

2015年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

 先週、高校生が命を落とす事件がまたもや発生した。
 
 その高校生は、彼女がいるにも関わらず、祭りで他の女性に声をかけたという。
 それに腹を立てた友人たちが、川辺で高校生を殴った後「対岸まで泳いで帰ってきたら許してやる」と告げた。
 彼は、言われるまま川に入り、中ほどで力尽きて沈んでいった…。

 ん~。

 
 「LINE繋がりの友人までは把握しきれず守りきれない」とは先生のコメント。

 ごもっとも(皮肉ではない)。

 「中学から高校(事件前)までは欠席もなく、生徒同士のコミュニケーションも良好」
 「ただただ驚いている。信じられない」

 これもごもっとも。

 
 仮に、彼に不良(何を持って?定義でもあるのだろうか)の素行があれば
 「ああ、やっぱりね~。そんだけやらかしてたら事件もおきる」と納得したのか。
 善良(何を持って?定義でもあるのだろうか)な市井の人は事件を起こさないのか。
 
 不良でも善良でも、人は心の奥底に、いかんともしがたい「渦巻くもの」を抱えている。
 人間は、大なり小なりそういう生き物ではないのか。

  
 彼女ができたら、他の女性に声をかけては(親しくなっては)いけないのか。

 祭りは「ハレ」の空間
 多少のやらかしもそりゃあるだろう。
 目にとまった女性に声をかけても良いではないか。
 それがきっかけで、付き合っていた女性と三角関係になり、高校生は悩む。
 
 良いではないか。
 経験は、後々の人生を生きていく上で自らを助ける標になりうる。

 でも、そうは考えなかった。
 そう教えてくれる人たちに恵まれなかった。

 
 川の水深は深いところで3メートル、かつ湾に注ぐ河口近くであれば一層流れは速い。
 潮の干満差が大きければなおのこと。

 亡くなった高校生もたきつけた友人たちも、この川で泳いだことはあったか。
 海水浴とはちがう。
 流れのある、しかも流れに逆らって泳ぐことがどんなに大変か。
 死んでしまうかもしれない。

 それよりも

 自分たちの知らない所で、亡くなった高校生が「ハバ」を利かせたことへの罰を
 何より与えたかったのか。

 
 思春期を迎える、あるいは過ぎる頃になると、親とのコミュニケーションが細る子どもがいる。
 亡くなった高校生は、普段の交友関係を親御さんに話す機会がそうなかったのかもしれない。
 親御さんも、学校に休まず通ったり、休みには「今日は○○と××へ行ってくる」と言われたら
 とやかく言わず送り出すのは自然なこと。

 何より「家の子に限って」というのは、子を持つ親の切望。

 
 あえて言いたい。


 親は、子どもにどんなに煙たがられようとも、声をかけ続けなければならない。
 「心配している」と腹の底から声を出して言わなければならない。

 「大丈夫、少なくとも私たちがついている」と腹の底から言い続ける人がいたら
 人はそう簡単には死なない。

 返答がないからと言って、すぐに部屋に入り込んで物色してはならない。
 携帯やスマホの履歴やメールを読んではならない。
 
 それでもと言うのなら、本当に「我が子が死ぬかもしれない」と強い危機感を募らせた時だけ。
 そうでなければ、子どもに責められた時、親の覚悟を示すことができず、関係が破綻しかねない。

 手を尽くしてもなお、死という結果に至ったのなら、それはしょうがない。

 手を尽くしても上手くいかないことがある。
 手を尽くさなくても上手くいかないこともある。
 
 だとしたら

 守るために手を尽くすことが親の務めである。

 これは、子を持つ私自身の自戒でもある。



 私たちは、もっともっと沢山の体験や経験を積む必要がある。


 もっと幅も狭く、底も浅い川で泳いでみる。
 彼女がいるのに、他の女性に声をかけるということについて徹底的にディスカッションする。

 そうしながら

 想像する力を

 寛容な心を

 少しずつ少しずつ養っていくほかはない。


 今日はいつにもましての散文でした。

 ここまで読んでくださった貴方に感謝します。

 

 

 











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