『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

このブラームスは円熟なんかしてない!

2020年02月06日 | 考える日々
半年ほど前、パッヘルベルのカノンを弾いて、
3か月ほど前、ドビュッシーのアラベスク1番を弾いて、
今、ブラームスのラプソディ1番を練習しています。

前にも書いたかな、忘れたけど、
パッヘルベルは1653年生まれ、
ドビュッシーは1800年代後半の人、
この2人の間は、200年ちょっと空いているわけです。

この200年ほどの間に、人の意識は大きく変わりました。
それまで神を無邪気に信じていた人が、
だんだん、「神っているの?」って疑い出して、
その分、神から自立していきます。

パッヘルベルのカノンは、
ひたすら美しい音を重ねて作られています。
どの音ひとつも濁りがない。
だって、神は悪いことなんかしないもの♪

対して、ドビュッシーは、濁りも味わいとして、
動きの中で美しさに回収していきます。

美しいことが値打ちというよりは、むしろ、
葛藤や失敗もアリで、そういうの全部引き受けつつ、
「この足で歩いていくんだよ。理不尽?
あって当然じゃん!」というような、
ずいぶん自立した心の持ちように変わっています。

んで、その間はどうか、ということが気になって、
何か味わえるかな~、感じるかな~と、
古典派のベートーベンやモーツァルトを敬愛していた
ブラームスから、「ラプソディ1番」を弾いてみました。

劇ムズ。
和音が多すぎて、楽譜が黒い(^^;)。

素直にベートーベンやモーツァルトじゃないのは、
とりあえず、私、ブラームス好きだから(^^;)。
よくわからない区分、ロマン派じゃなくて新古典派、
とかいうくくりもあるらしくて。

パッヘルベルが子どもの頃特有の、
周りを無条件に信じる明るさを持っているとしたら、
ドビュッシーは酸いも甘いも知っている大人が、
身の回りに起こることを引き受けてる感じ。

そして、今弾いているブラームスのラプソディは、
めちゃくちゃ感情が激しく暴れてるの。

「神様に祈れって言うけど、
いくら祈ったって神様は助けてくれないじゃん!!
「どーしてこんなに世の中って理不尽なの??」
「片思だけど、愛してる愛してる愛してる!!!」
みたいな。

いわば、人類の青春反抗期。自立の前の自意識過剰期。
これを通り越してこそ、自立の時代を迎える。
13歳の娘がもうすぐ突入するであろう時期(^^)。
ベートーベンの苦悩に満ちたあの時代の続き。

神様を無邪気に信じてもいられないけど、
新しく悟ることもまだ出来なくて、
社会や人生の理不尽を引き受けるには未熟な、
でも、心はすごく繊細で、感受性が敏感な時代。
あの、自立に向かうガラスのような反抗期の特徴。

そういうのが、ブラームスと重なるのです。
うわーー、おもしろすぎる!!

ラプソディ1番の最後は、もやもや~っと終わるんだけど、
それも、なんか、
「神様なんか信じない、自分で生きる」って闘って、
「もう無理、疲れた」と半分諦めつつ、
ホントはま~~~ったく諦めても、納得してもなくて、
最後は朦朧とした意識の中で教会の鐘の音を聞いてしまう、
みたいな矛盾。ああ、なんて、せつない。

美しいなぁ…。

音楽の変化と、
人類の進化と
一人の成長が、
こんなに似た軌跡をトレースしてるなんて!!

ブラームスって、よく「円熟」とか言われる?
でも、この曲には確かに「反抗期」の葛藤と、
大きな壁の前で自分の力が及ばない時の歯ぎしりを感じる(^^)。

専門家に聞かせたら、呆れられるかもなぁ。
まぁいいや。自分と作品との関係だもの、
絵でも音楽でも、作者の意図や成立の背景とかは置いといて、
その作品が私に何を語ってくれるか、を
大事にすくい取ってみる楽しみも、なかなか贅沢でしょ♪


※音楽好きなら、こんなのもお好き?↓
グレン・グールドの音
パッヘルベルとドビュッシーと人の進化。音楽は人の中に直接届くなぁ




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