私たちが何かを見る時、
最初は、何の考えも伴わずに、
ただ、単純にモノが見えるのは、
見えるモノのせいではなくて、
私たちの精神のなりたちのせいだ。
私たちが現実の何かを見て、「現実だ」と見て取るには、
二つの側面からのアプローチが必要だ。
すなわち、「覚える」と「考える」だ。
※もちろん、「覚える」はこの本ならではの使い方。
「memory(記憶する)」じゃなくて
「recognize(認識する)」の方。
私たちは、何かを見てから「あれはなんであーなんだ?」と
何らかの考えが見たものに伴うまでに、
時間がかかる。
それは、人間の成り立ちとして、
覚えに考えを重ねるまで時差が必要なようにできているからだ。
世の中の物事を知ろうとして、
じっと見ることは必要だ。
しかし、それだけでは足りない。
自分で考えを重ねてみること。
4章の批判想念論で「世は想いだ」と言っていたけど、
実際は、「世は想い」ではなくて、
「世は覚えと考えの重なり」だ。
覚えたことに考えを重ねるのは、ひとえに人次第だ。
覚えに考えを重ねれば重ねるほど、世は確かさを増す。
批判想念論のように
「仮に世というものがあるとして」というように、
なんだかよくわからない仮定をしなくても、
「覚えに考えを重ねる度合いによって世が確かになる」
と言われる方が、すごくスッキリ納得できる。
物事に沿って考えること。
妄想に沿って、ではなくて。
私がよくやりがちなことなんだけど、
「この人はこんなに人に迷惑なことを繰り返している。
=この人はこんなワルモノに違いない」というふうに見えてしまう。
「この人」の中の全体に沿って考えるのではなくて、
自分に都合のいい「ワルモノな部分」だけにクローズアップして、
ついぞ、「この人」のせつない部分や、
背負っているものの大変さに目が向かないで、
「この人」の全体像にも気づかないまま。
それでも、その時には、
現実の「この人」に沿っているつもりだから、
物事に沿って考える、というのは、思った以上に難しい。
友人で「私は相手に沿って見たんだけど、
相手が聞く耳持たないのよ!」と言い放った人がいたが、
沿う時には、自分の口はいらないかもしれないな。
耳と心を大きく開いて、口は閉じる。
えーと、少し話が逸れたかな。
ともあれ、私の心は「想い」でいっぱいになりがちだから、
「物事に沿う」ことがスタート地点だ、ということを
意識しておいた方がいいな。
沿ってるつもりで妄想しか見てないんじゃないか、とか、
沿ってるつもりで振り回されてるだけじゃないか、とか。
心に勝手に沸いてくるものに振り回されずに
「物事に沿って」考えるのは、一筋縄ではいかない。
でも、努力する値打ちは確かにありそうだ。
最初は、何の考えも伴わずに、
ただ、単純にモノが見えるのは、
見えるモノのせいではなくて、
私たちの精神のなりたちのせいだ。
私たちが現実の何かを見て、「現実だ」と見て取るには、
二つの側面からのアプローチが必要だ。
すなわち、「覚える」と「考える」だ。
※もちろん、「覚える」はこの本ならではの使い方。
「memory(記憶する)」じゃなくて
「recognize(認識する)」の方。
私たちは、何かを見てから「あれはなんであーなんだ?」と
何らかの考えが見たものに伴うまでに、
時間がかかる。
それは、人間の成り立ちとして、
覚えに考えを重ねるまで時差が必要なようにできているからだ。
世の中の物事を知ろうとして、
じっと見ることは必要だ。
しかし、それだけでは足りない。
自分で考えを重ねてみること。
4章の批判想念論で「世は想いだ」と言っていたけど、
実際は、「世は想い」ではなくて、
「世は覚えと考えの重なり」だ。
覚えたことに考えを重ねるのは、ひとえに人次第だ。
覚えに考えを重ねれば重ねるほど、世は確かさを増す。
批判想念論のように
「仮に世というものがあるとして」というように、
なんだかよくわからない仮定をしなくても、
「覚えに考えを重ねる度合いによって世が確かになる」
と言われる方が、すごくスッキリ納得できる。
物事に沿って考えること。
妄想に沿って、ではなくて。
私がよくやりがちなことなんだけど、
「この人はこんなに人に迷惑なことを繰り返している。
=この人はこんなワルモノに違いない」というふうに見えてしまう。
「この人」の中の全体に沿って考えるのではなくて、
自分に都合のいい「ワルモノな部分」だけにクローズアップして、
ついぞ、「この人」のせつない部分や、
背負っているものの大変さに目が向かないで、
「この人」の全体像にも気づかないまま。
それでも、その時には、
現実の「この人」に沿っているつもりだから、
物事に沿って考える、というのは、思った以上に難しい。
友人で「私は相手に沿って見たんだけど、
相手が聞く耳持たないのよ!」と言い放った人がいたが、
沿う時には、自分の口はいらないかもしれないな。
耳と心を大きく開いて、口は閉じる。
えーと、少し話が逸れたかな。
ともあれ、私の心は「想い」でいっぱいになりがちだから、
「物事に沿う」ことがスタート地点だ、ということを
意識しておいた方がいいな。
沿ってるつもりで妄想しか見てないんじゃないか、とか、
沿ってるつもりで振り回されてるだけじゃないか、とか。
心に勝手に沸いてくるものに振り回されずに
「物事に沿って」考えるのは、一筋縄ではいかない。
でも、努力する値打ちは確かにありそうだ。
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