『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学5章15

2012年09月30日 | 『自由の哲学』
私たちが何かを見る時、
最初は、何の考えも伴わずに、
ただ、単純にモノが見えるのは、
見えるモノのせいではなくて、
私たちの精神のなりたちのせいだ。

私たちが現実の何かを見て、「現実だ」と見て取るには、
二つの側面からのアプローチが必要だ。
すなわち、「覚える」と「考える」だ。

※もちろん、「覚える」はこの本ならではの使い方。
「memory(記憶する)」じゃなくて
「recognize(認識する)」の方。

私たちは、何かを見てから「あれはなんであーなんだ?」と
何らかの考えが見たものに伴うまでに、
時間がかかる。
それは、人間の成り立ちとして、
覚えに考えを重ねるまで時差が必要なようにできているからだ。

世の中の物事を知ろうとして、
じっと見ることは必要だ。
しかし、それだけでは足りない。
自分で考えを重ねてみること。

4章の批判想念論で「世は想いだ」と言っていたけど、
実際は、「世は想い」ではなくて、
「世は覚えと考えの重なり」だ。
覚えたことに考えを重ねるのは、ひとえに人次第だ。
覚えに考えを重ねれば重ねるほど、世は確かさを増す。

批判想念論のように
「仮に世というものがあるとして」というように、
なんだかよくわからない仮定をしなくても、
「覚えに考えを重ねる度合いによって世が確かになる」
と言われる方が、すごくスッキリ納得できる。

物事に沿って考えること。
妄想に沿って、ではなくて。
私がよくやりがちなことなんだけど、
「この人はこんなに人に迷惑なことを繰り返している。
=この人はこんなワルモノに違いない」というふうに見えてしまう。
「この人」の中の全体に沿って考えるのではなくて、
自分に都合のいい「ワルモノな部分」だけにクローズアップして、
ついぞ、「この人」のせつない部分や、
背負っているものの大変さに目が向かないで、
「この人」の全体像にも気づかないまま。

それでも、その時には、
現実の「この人」に沿っているつもりだから、
物事に沿って考える、というのは、思った以上に難しい。
友人で「私は相手に沿って見たんだけど、
相手が聞く耳持たないのよ!」と言い放った人がいたが、
沿う時には、自分の口はいらないかもしれないな。
耳と心を大きく開いて、口は閉じる。

えーと、少し話が逸れたかな。
ともあれ、私の心は「想い」でいっぱいになりがちだから、
「物事に沿う」ことがスタート地点だ、ということを
意識しておいた方がいいな。
沿ってるつもりで妄想しか見てないんじゃないか、とか、
沿ってるつもりで振り回されてるだけじゃないか、とか。

心に勝手に沸いてくるものに振り回されずに
「物事に沿って」考えるのは、一筋縄ではいかない。
でも、努力する値打ちは確かにありそうだ。


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