4年前、「経済は愛か暴力か」という話を
友人としていたらしい。
友人としていたらしい。
めっちゃ二元論で考えてる。
AかBか。敵か味方か。
いや~、今ならもうちょっと上手に
一元論で考えられそうなもんだけど。
メモの様子では、わりと細かい話をしていたみたい。
この辺の「うわー、めんどくさいヤツ」
この辺の「うわー、めんどくさいヤツ」
もとい、粘り強さは、
昔から人後に落ちないのだ。わはは。
対話、大事。
昔から人後に落ちないのだ。わはは。
対話、大事。
つきあってくれる人、ありがとう。
んで、その時のメモの走り書き。
「0.0001の愛なら可能」だって。
経済は、99.999が暴力でも、
自分の力が0.0001あるなら、
その力を使えば0.0001くらいは
愛から経済を繰り出せるんじゃない?
ってことだね。
自分の力が0.0001あるなら、
その力を使えば0.0001くらいは
愛から経済を繰り出せるんじゃない?
ってことだね。
世界に70億人いるとして、
私の持ち分が、70億分の1の力だとする。
数字で書くとどうなるんだ?
えーと、7000000000分の1。
あってる?? まぁいいや。
んで、自分の力がたったこれだけである、ということは、
すんごい小さくてむなしいことにも見えるけれど、
身の回りを7000000000分の1良くしていける
私の持ち分が、70億分の1の力だとする。
数字で書くとどうなるんだ?
えーと、7000000000分の1。
あってる?? まぁいいや。
んで、自分の力がたったこれだけである、ということは、
すんごい小さくてむなしいことにも見えるけれど、
身の回りを7000000000分の1良くしていける
ということにフォーカスしたら、とても楽しい。
だいたい、
だいたい、
あたし70億人に影響力持ってないし。
直接影響のある何人か何十人かの間で生きてるんだから、
数十分の1だと考えたら、すんごい大きいじゃん。
直接影響のある何人か何十人かの間で生きてるんだから、
数十分の1だと考えたら、すんごい大きいじゃん。
身の回りに愛を繰り出せることが、
身の丈のシアワセ。
身の丈のシアワセ。
たとえば、今朝、散歩してたら近所の友人と出会って、
「リアルにしゃべるのとオンラインでしゃべるのは、
やっぱし違うよな~♪」と喜んでいたら、
「それ、今度の朝礼で話そ~っと!」って言うのね。
「朝礼ネタ本」みたいなのを買うこともできるけど、
そこで活かせる言葉を
普通の話の中から、拾うこともできる。
愛を持って仕事をしている人だな~って思う。
普通の会話だって、
モノと同じように、いや、それ以上に
それで生きる勇気が出たり、自殺したりするくらい、
実態のあるもの。
「見えないものにリアリティを感じる」
という意識を持つと、
ずいぶんいろんなことが違う色に見える。
試しに、ずっとは余裕がないから、
ちょっとだけ気持ちを区切って、
「やり取りしているのはお金じゃなくて愛だ」
っていう意識で仕事してみた。
ら、いつもより相手の存在をありがたく感じて、
自分にできることを喜んで提供したくなった。
いいじゃんいいじゃん。
あ、もしかして。
昨日の面接の基本姿勢も愛だった。
よく考えたら、
今の私の身の回りの経済は、
わりと愛に基づいているな。
食べものに関しては、基本的に愛。
野菜は父の愛。
お米も、無農薬で作っている人の愛。
お肉や卵や牛乳も
生産者の地球愛や牛愛、豚愛を感じるところから買っている。
けど、貯金が減ってきて、
値段重視で買うことが増えた。
その時は価格競争の原理で、愛じゃないな~。
着るものは、直接的には母の愛が多いけど、
(いまだに母のお下がりを来ている)
その先をたどれば競争原理で
地球にも人にもやさしくないかも。
そこは意識薄いな。
まぁ、そんなわけで、
全部は無理でも一部は愛に基づく経済は繰り出せる、
どんな人でも。
というのが、4年前のメモを発見しての、
今日の私の考えです。
二元論で白黒つけるより、よっぽどいい結論だわ。
世界は白と黒じゃないもの。地球はひとつ。
アナタとワタシでもなくて、「わたしたち」で考える。
一元論って、めっちゃ好きやわ~。
愛でもなく、暴力でもなく、お金で済ませて極力遺恨が残らないようにするのが経済活動。
本来なら人間関係をスムーズにする為のもの。
お金なら遺恨は残りませんか?
経済活動は人間関係のためのものですか?
いろんな問いについて考えられそうですね。
要は使い方次第で関係を良くも悪くもするわけで、お金で済む話ならそれほど大したことではない。
愛のインフレ・デフレなど、それこそいただけない。
考えるまでもない話。