『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章1段落_5

2016年06月07日 | 『自由の哲学』
覚えは、客観的に与えられる現実の半分で、
考えは、主観的に与えられる現実の半分だ。
私たちの精神の作りは、その二つの現実を半分に引き裂く。

ひとつは、覚える。もうひとつは、悟る。
その二つを両方合わせて、
現実の法則に、考えを重ね合わせることで、
まるごとひとつの現実に至る。

私たちは、ただの覚えをそれだけ見て(考えないで)、
意味のないカオスに向き合い、
覚えについての法則(誰かの考え)だけを見て、
抽象的な考えを頭で転がす。

抽象的な、頭で転がした考えでなく、
考えつつ見ることで、捕まえるところこそだ。
現実があるのは。

すなわち、考えだけでなく、覚えだけでなく、
考えつつ見ることで、現実が理解できる。


このあたりにきて、
前に言ったことと同じことを、
短い言葉で繰り返し言ってる気がします。
今までの総まとめ的な章なので、
思い出す、という感じでしょうか。

人はやりたいことができるのか。
やりたいことをするには、
現実とかみ合う必要があるし、現実的な思考も必要だ。

現実に働きかけるための、現実のとらえ方、
現実に働きかけるための、現実的な考え方。
片方だと、暴走するけれど、
幸い、現実の世界は、暴走したら合図をくれる。
「それ、違うよ~」って、行動の結果が教えてくれる。

だから、考えるだけじゃなくて、思い切って行動すると、
それが、結果を運んでくれる。
そして、自分が間違ってたことを教えてくれる。

その間違いを受け入れるためには、
評価に執着しないでいられるよう、
自分が自由でいられること。

そしたら、素直に、
現実が目の前に姿を現すんじゃないかな。

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