一昨日、くれよんぐるぐるで
座ってる人みたいな図が出来て喜んでましたが、
座禅は正しくは「坐禅」と書くそうです。
ブログをご覧になった僧侶の方からご指摘いただきました。
ありがとうございました。
サラッと直しておく方がお望みかな、とも思ったけど、
それより「指摘の手間をかけるほど大切な違いって何だろう」、
というのが気になったので、ググってみました。
ほぉほぉ。なるほど、意味が変わってくるんですね?
検索上位3サイトくらいを見たら、
似たようなことが書いてあったので、それが共通見解なのかな?
忘れそうなので、その違いを書き留めておきます。
あ、大丈夫、別にややこしい話ではありません。
坐禅=土の上に人が座っている漢字。座る行動を示す。
お釈迦様は土の上に座ったんだぞ。
座禅=お釈迦様が土の上なのに、こっちには屋根があるぞ、
しかも、これは座る行為じゃなくて場所を示す言葉だぞ。
みたいな感じです。なるほど、へ~、知らんかった!
常用漢字を制限し、教科書や新聞にはそれしか使わない
と決めてから、過去の遺産が読めなくなりました。
もちろん、辞書で調べなくてもたいていのものが読めるのは便利ですが、
読む価値のあるものが流通しているかは別です。
このブログも含めて。
私は、気合を入れれば、露伴とか鴎外がギリギリ楽しめるけど、
中2の子どもは、芥川や太宰すら難しいとゆーてます。
それどころか「本」というのを読んでいる時点で「エラい認定」だし、
それでもラノベを読んでるとこしか見たことないぞ。
あ~文化が断絶しちゃってるなー。
日本民族はもちろん、アイヌとかチベットとか、
それぞれの民族の価値観や心の在り方などが継承されずに、
「強くて早くてカシコイのが正義、それ以外は理想論」って、
価値観が一本化されちゃってるのは人類の損失。ああ窮屈。
ブログはもちろん自由に漢字が使えるけど、
難しい漢字使っても、ふりがな打てないもんなぁ。
「読みにくそうだ」と、ついひらがなにしてしまう。
日本人的には、
昔の日本人の心の在り方には興味あるので、
たまに昔の本読んで、玉砕する。
中江兆民、とか、ぜったいおもしろそうだし、
内村鑑三、とか、驚くほどに誠実で命がけ。
映画やアニメや動画サイトがあるのに、
あえて能舞台を見に行くのが難しいように、
マンガやラノベがあるのに、
おなじ気楽さで古典に向かうのは難しい。
あえて昔の本を読んで楽しもうとしなくても、
向こうから勝手に楽しませてくれるものが溢れているので、
言葉に向かう時のこちらの心構えが、
経験値として全然足りないんだよなー。
毎日書いてるこーゆーものと、
一生に一回、世に問う気概を持って書き、
過去何百年もの間磨かれて今に伝わってきた古典とを、
同じ心構えで読もうというのが土台無理な話。
文化の継承なぁ…。
「昼寝しとく間に、専門家の人お願いしま~す」って感じだけど、
受け取り手に届かないバスを出しても仕方ないので、
とりあえず自分にできることは…と、
「読書を楽しめるギリギリの範囲を広げる」
「“楽しむ”の中に“取り組む”も含める」かな。
明治の文学には、まだ
日本人独特の価値観が色濃く残ってるからね。
ガツンと味わうことはできなくても
残り香を嗅いでびっくりすることはできる。
とりあえず、音読したらリズムはいいぞ(^^)。
誰を読もうかな~??
ご丁寧に応答していただきまして、ありがとうございます。
恐縮しております。
拙僧などはあちこちで講演を行う場合などにも漢字の違いについて説明します。上記の記事の通りなのですが、「坐」は行為、「座」は場所、と説明します。
「坐禅」は「すわる禅」なので、「坐」となります。なお、かつての禅僧が書いた文献の多くは、「坐禅」と表記されています。たまに「坐禅」と書いている人を見付けると、とてもモヤッとします。
それでは失礼いたします。
「坐」と「座」、行為と場所の違いなんですね。
知識がリンクすると面白いです。
教えて頂き、ありがとうございます!