『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

硬くてまっすぐな“かな床”で鉄を鍛える

2020年11月11日 | 考える日々
昨日、
何かを考えたり学んだりしたい時には、
信頼し、尊敬できる人から学ぶのがいい。
というようなことを考えていました。
身構えなくていいから。

身構えて鎧を着たままの対話は、がちゃがちゃぶつかり合うし、
外から新鮮な風が入る余地がない。
勝敗がメインテーマになっちゃって、
中にいる人の事も知らないまま終わる。
どこを目指しているのかわからない。

勝敗と言えば、ディベートのおもしろさは、
自分とは違う意見にも沿ってみるところ。
でもアレはあんまり好きじゃない。
普通の対話で、相手の意見に沿ってみたら、
勝敗じゃなくて、「ホントウ」に迫れるはずなのに。

鎧を脱いで、
まぁ下着程度はマナーだから身に付けて(^^;)、
生身の人間同士が触れ合えば、
腕力だけじゃわからない事がいっぱいわかる。

自分の中を注意深く見ながら、
「私にはこう見えてるんだけど、そっちからどう見える?」
「じゃあ、これはどう考えたらいいかな?」ってのを、
一段ずつ、自分と相手両方から誠実に積み重ねる。

決して急がない。
誰かの答えは、誰かのものであって、
自分の力になるのは、
自分で出した答えだけだと知っているから。
だから、互いに相手に心を開きつつ、自分の中を点検する。

他人の考えに沿いながら、自分の考えを鍛えるのは、
鍛冶屋が熱い鉄を叩くのと少し似ている。
あんなに熱くやわらかそうな鉄を、
あんなに硬く冷たい鎚で叩いても、
鉄はちぎれるどころか、どんどん強くシャープになる。

いろんな考えで叩けば叩くほど、鉄は鍛えられる。
どんなに他の考えに触れたって、鉄が壊れるわけじゃない。
熱く叩かれるほど、切れ味鋭く鍛えてもらえる。

だけど、洗脳されたり傷ついたりする可能性もあるから、
自分を叩く時のかな床は、
やわらかい言葉や、都合のいい言葉じゃなくて、
厳しくとも芯の真っすぐなものを。

そういう意味でも、古典は安心。
どの時代でも、どの国でも
通用することが書いてあるから。

生きている間は、
周りの人やいろんな出来事が、
私という鉄をゆっくり鍛えてくれるんだろうな。

人から強く叩かれたら自信なくすから、
先にちょこちょこ自分で叩いちゃうか??
それなら耐えられる程度の強さに調整できるし、
鍛えてるっていう手ごたえも感じられるし。
勇気要るけど、思い切りなんだろうな。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (オキツ)
2020-11-13 17:31:34
ホント、必要ですよね。
ものの見方を深めていくことによって、少しずつホントウに迫っていきたいと思います。
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Unknown (ZIP)
2020-11-12 17:31:40
システムを学ぶということは、ものの見方を学ぶことです。
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Unknown (オキツ)
2020-11-12 17:23:49
難しそうです!
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Unknown (ZIP)
2020-11-12 01:10:07
考え方を考えるには少なくともシステムを学ぶ必要があるわけです。
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