「今日の芸術」という古い本の中で、
世界を見てきた岡本太郎が、
封建的な日本を嘆いている文が響いた。
これ、「世界」を「精神」に、
「日本」を「物質」に置き換えて読んでみたら、
今の私たちの課題と共通する。
少し長いけど引用します。
「我々は世界人であると同時に日本人であり、
この日常の環境こそ、なんとしても切実であり絶対的です。
世界的であるということは、
けっしてこの現実の土台から足が浮いてしまうことではありません。
それどころか、この身近な世界に徹底し、
現実そのものをつねに新しく創造してゆかないかぎり、
われわれは絶対に世界的な仕事はできないのです。
日常の環境はなんといっても狭くかぎられていますし、
特殊性があって、とかく世界的にものを見、作ることをさまたげていることは事実です。
この特定な泥の上にある閉ざされた世界と、
開かれた世界的な世界は、かえってお互いに対立する反対物でさえあるのです。(中略)しかし、その矛盾の上に立ち、両極を同時につかみ取るのでなければ、これからの本当の芸術は成り立ちません。
それが実は、本当に生きることであり、
また芸術の創造になるのです。」
精神的でありたいと同時に、物質界に生きている私たち。
精神的なことばっかり賞賛して、物質社会を嘆いていても、
何も変わらない。
物質社会にきちんと足を付けて現実を新しく創造することで、
精神的な仕事ができる。
今生きている物質世界と精神世界、
両極を同時につかみ取れば新しい世界を創造できる、と。
シュタイナーも
「精神の高みから現実社会を見下ろして、
現実を切り捨てるようなことだけはするな」と
何かに書いていたっけ。
よくやっちゃうんです、私。
世界を見てきた岡本太郎が、
封建的な日本を嘆いている文が響いた。
これ、「世界」を「精神」に、
「日本」を「物質」に置き換えて読んでみたら、
今の私たちの課題と共通する。
少し長いけど引用します。
「我々は世界人であると同時に日本人であり、
この日常の環境こそ、なんとしても切実であり絶対的です。
世界的であるということは、
けっしてこの現実の土台から足が浮いてしまうことではありません。
それどころか、この身近な世界に徹底し、
現実そのものをつねに新しく創造してゆかないかぎり、
われわれは絶対に世界的な仕事はできないのです。
日常の環境はなんといっても狭くかぎられていますし、
特殊性があって、とかく世界的にものを見、作ることをさまたげていることは事実です。
この特定な泥の上にある閉ざされた世界と、
開かれた世界的な世界は、かえってお互いに対立する反対物でさえあるのです。(中略)しかし、その矛盾の上に立ち、両極を同時につかみ取るのでなければ、これからの本当の芸術は成り立ちません。
それが実は、本当に生きることであり、
また芸術の創造になるのです。」
精神的でありたいと同時に、物質界に生きている私たち。
精神的なことばっかり賞賛して、物質社会を嘆いていても、
何も変わらない。
物質社会にきちんと足を付けて現実を新しく創造することで、
精神的な仕事ができる。
今生きている物質世界と精神世界、
両極を同時につかみ取れば新しい世界を創造できる、と。
シュタイナーも
「精神の高みから現実社会を見下ろして、
現実を切り捨てるようなことだけはするな」と
何かに書いていたっけ。
よくやっちゃうんです、私。
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