『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

「良い」「悪い」をラーメンで理解した!

2020年05月26日 | 考える日々


人助けは良い事だけど、
逃亡中の殺人犯を助けるのはいい事?
寄附は良い事だけど、
環境破壊企業が、自然保護活動に寄付をするのはいい事?
泥棒は悪い事だけど、
飢え死にしそうな時、食べ残しを盗み食いするのは悪い事?
ルパンがお金持ちから盗んで人を助けるのはどう?

もっと身近なところで、
友達同士で仲良くしてほしいのに、モメそうな時、
「〇〇ちゃん、私のこと、なんて言ってた?」って聞かれても
正直に「“最近は声聞くだけでも腹が立つ”って言ってたよ」
とか、言いたくないもんなー。嘘は悪いと言われても。

こーゆーの、素直に判断しかねます。
「良い」「悪い」の判断基準はどこにあるのでしょう?
実は、『自由の哲学』は
そんなものどこにもない、と言うのです。

「その場にふさわしいかどうか、だけがあって、
正しい行動や正しくない行動があるわけではない」と
って、何章に書いてあったかなぁ~?
あれ、一般人間学か? 忘れた(おいおい)。

自分のことで考えてみよっと。
ちょっと前に、近所の一人暮らしの人に
コロナ対策で消毒液を持っていった事も、
その人が消毒液を欲しがっていればふさわしい行動だけど、
持ってたのに、または要らないのに押し付けたなら、
お返しに気を使わせる、親切の押し売りでしかない。
ふさわしくない行動、という事になるもんなー。

素直に「困ってはるやろな、ついでに」とも思ったけど、
親切な人だと思われたいとか、
人にいいコトする自分が好きとか、
絶対、あれこれ混ざってるから。

「それって、その場にふさわしい?」って、
ワンクッション考える必要がありそうです。

自分では正しい事を言ってるつもりでも、
実は、それによって相手をへこませたい、とか、
それによって自分が優位に立ちたい、とか、
ヘンなのが混ざってることっていくらでもあるからね。

うーむ、なかなかめんどーだ。

「良い」か「悪い」かの基準は、どこにもなくて
「ふさわしいかどうか」があるだけってのはね。

たとえば、ふさわしいかどうかは、
ラーメンに、チャーシューやモヤシは良くて、
あんこなんか入れるなよ、マズイやろ、
っていうだけの事かもしれない。

おなじく、ふさわしくないと思われていたトマトを、
あえてラーメンに入れてみる人がいたら、
実はめっちゃそれがおいしかった。
ふさわしい味だったから、「悪い」が「いい」に変わった
…とようなことを「革命的」と呼ぶんだろうな。

おや、善悪や革命をラーメンで語ってしまった。
それって、ふさわしい(^^;)?
わかりやすいなら、ヨシとしよう。

学校を休むのが「ワルイコト」だとしても、
熱っぽいなら、休むのが「ふさわしい」し、
健康な食生活は「イイコト」だとしても、
そう思ってない人に強要するのは「ふさわしくない」。
アントロポゾフィが問題の解決に役立つと思って、
共に学ぶ人と深めていくのは「ふさわしい」けど、
興味のない人に議論をふっかけるのは「ふさわしくない」。
美味しいお菓子は、
楽しくお茶する時にはふさわしいけど、
授業中に食べるのはふさわしくない。

「良い」か「悪い」かの判断は、どこにもなくて
「ふさわしいかどうか」があるだけってのは、
まぁ、そういうことだな。
言葉にしてみたら、すごく当たり前の事だった。

「そんなことしていいの?」と問わずに
「今、それする事がふさわしい?」って問う方が、
問う方も問われた方も、自分基準で考えられていいな。


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