『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

キュウリとお話する(メルヘンじゃないよ)

2022年06月26日 | シュタイナー

キュウリが、毎日1〜2本ずつ採れます。
ありがたやありがたや。
「私は嬉しいけど、
キュウリは私に食べられるために、
毎日実ってるわけじゃないよね?」って、
なんか妙に気になったりして。

いや、別に、
「あたし優しいでしょ」って言いたいわけじゃなくて
「自分が集中して真剣に向き合ってみたら、
あらゆるものから学べるに違いない」
っていうのを試しているだけです。

えーと、シュタイナー的に言えば、
6つの行の最初の「思考の行」もどき?
どーしても、相手に寄り添いきれずに
自分の思いを重ねて捉えたくなるから、
全然進まないんだよねー。
やっぱ、無生物の方がやりやすいかな。

キュウリ見てたら、
のびのびぐんぐんつるを伸ばして、
境界線がなくなるくらい絡まりあって、
1つの壁面として、影を作ってくれてます。

水が足りない時には、
今大きくなろうとしている実に水分を送るべく、
ソッコー下葉を枯らし、
小さく実りかけた実を茶色く腐らせるなど、
いろんな工夫をしています。

こんなにいろいろ考えて、
お互いに自分も伸びて、お互いに支え合って、
もはや壁になるくらい伸びて、
いっぱい実りがあっても、残念ながら、
支柱とネットの範囲を越えられません。

一人きりで立っていられる人なんか
ほとんどいないんだから、
やっぱり社会にはセーフティネットが必要。
自分を伸ばしていける、安心な居場所が。

今は家庭だけど、一人残されたら、どーすんだろ?
やっぱり、公共の役割としてお願いしたい。
昔、一人暮らしをしてて高熱が出たりしたら
「誰も気づかれずに死ぬのかな」って不安だったもの。

緑のカーテンとして日よけに植えたキュウリは
背の高いネットの上を縦横無尽に伸びている。
それに絡まなかったツルは、伸びても踏まれるから、
いわばセーフティネット。

セーフティネットがあるだけで、
こんなにも青々と自分を伸ばすことができて、
相手とも関わり合いながら、
全体としてたくさんの実りをもたらすキュウリ。

身近で言うと、「ご飯作っていくわ」
「じゃあ掃除しとく」
「駅まで迎えに行ってくるね」
「その間、子ども見とこうか?」
みたいな、イメージ。

一人で立てる大木は、
ネットも要らなくて自由だし、
自立してる姿に憧れるけど、
やっぱり、人は支え合うのがふつーな気がする。

「おれ、仕入れ先と話してくるわ」
「新しいデザイン、こんな方向でどうかな?」
「その日、スケジュールキツイから打ち合わせ伸ばしたら?」
「とりあえずお客さんの話聞いてくる」とかね。

う〜ん、自立できない状態でも、いっぱい実るよね〜。
そんなにリーダーシップ取れる人じゃなくても、
自分の出来ることが、全体の中で生かされてる。

じゃあ、支柱は何?
キュウリの支柱は人間が立てた。
人間にとっての支柱の役割ってカミサマ? 
いや〜、それはもっと大きな調和の話だよな。

支柱くらいだったら、もっと身近な存在かな。
市や町の自治体とか? 会社とか? サークルとか?
何かの「全体」としてまとまる枠組み。

キュウリと違って人間は、自分で動けるから、
その枠組みは流動的だし、
ひとつにしか所属できないわけでもない。

自治体とか会社とかサークルとかが、
「構成メンバーが自分を生かして支え合う場所」
として機能していけたらサイコーだけど。

「支え合い、生かし合う」っていう意味では、
昔の商店街はいい社会だった気がします。
ちょっと離れた場所に、安い店があっても、
商店街の店主も家族も、お互いの店で買って支え合う。
自分の店で買ってもらうから、相手の店で買いたい。

普段から、お互いにお世話になってるから、
ヘンなものも売りつけないだろうという信頼もあるし。
一定メンバーがぐるぐる買い物し合って、支え合う。
自由度が低いのは問題なんだけど。

…とか何とか、
感情が何をどう捉えようが、
思考がそれとどうつきあおうが、
身体はそれとは別の次元なので、
今日もありがたくキュウリ食べます(^^)。

どもども、さんきゅーです。
キュウリさまにも生かされた命。
の、使い道。の方が大事だよね。



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