こないだ、話をしている時に、
「オキツさんは仕事をすごく真面目に考えてるから」
と言われた。
たぶん、真面目に仕事をする、という意味ではなくて、
自分が大切だと思うことをそのまま仕事にしたい、
と考えすぎている、という意味において。
そう言ってくれた人が
とても真面目に生きている人だったから、
普段よりもず~っと中まで届いた。
普段、ビジネスライクな人に
「そんなに考えんでもいいやん、仕事は仕事やん」
と言われたら、
「いやいや…仕事は自分の表現でしょ」って思うのに。
そう言えば昔、
その人が今の仕事に就いた理由を人に聞いて
「大学の先生に紹介されたから」と言われた時、
「えっ、そんなんで決めたの???」とビックリした。
私は、自分を生かして社会に何か…
「真善美」みたいなものを繰り出していくことを
「仕事」のイメージとして捉えていたから。
とかエラソーに思っているのに
ストレートにそれがお金にならないことを、
もっと出来るはずなのに、不甲斐ないな、
といつも思っているから。
前の上司にも言われた。
「そんな、哲学的なことはどーでもいいやん」。
今の上司にも言われる。
「向いてる仕事に就けたらそれが一番」。
私、仕事に対する考えが、
一般的じゃないのかもしれないな。
と、うすうす気づいていたけれど、
改めて考える時期なのかもしれない。
もっと素直に
仕事は表現じゃなくて、狩りだ。
生きるために最低限必要なことだ。
って、理解すればいいのかもしれない。
そう思うことに、何か、
ブレーキがかかっているのかもしれないな。
狩りをして獲物を食べ、
おなかが膨れたら、火の周りで踊る、
という順番が真っ当なのに、
踊ることの方にリアリティ感じるんだよね、私。
なんでかなぁ~。
今までを振り返るとヒントが転がってるかも。
あ、もしかして、両親の商売の浮き沈みが、
子どもの私に影響している可能性もあるか?
身内から見た彼らの本質の変わらなさと、
商売の盛衰による人からの評価の変化。
それに伴う暮らしの浮き沈み。
その3つは全然リンクしてないから、
お金の有無や人からの評価は、
人間性を見る時にはまったく当てにならない、
人間性とお金や人の評価はまるで無関係だ、と強く思ってきた。
〇〇にお勤め、〇〇の家柄、
〇〇にお住まい、みたいなのも含め。
そして、自分の裁量で、家族を養ってきたという
父の自立心や矜持。
そこにある自由と責任。
一緒になって仕事も家庭も支えた母の献身と、
子どもたちへの愛。
父の時代は、
社会が高度経済成長期から停滞期に移った時代。
いろんな策でなんとか乗り切ってくれた感がある。
感謝、という言葉は…似合わないな。
尊敬?
いや、そういう話じゃなくて、
そういう子どもの頃の経験が、
私の仕事観にすごーく影響しているんだな、
という可能性に気付いてきて、
そこを掘ろうとしてたんだった。
人からの評価に振り回されないこと。
仕事に対する自律心や矜持。
この2つが、
私に安定した仕事を選ばせなかったんだな。
でも私は父じゃないんだよな~。
人からの評価も気にしてるってわかったし、
自律心なんかめっちゃ弱くて、
一緒にやってくれる人がいないと立てないもの。
なんたって、きゅうりだもの。
あーだこーだ考えずに叫んでみようか?
「お金欲しい~。楽して稼ぎたい~~」。
「褒められたい~、尊敬されたい~~」。
あはは、なんか解放感あるわ~。
あるある。私の中にそういう気持ち。
今まで、そこに光当てて来なかったけど、
そういうの、あるわ。
「やりたいことやってたらお金は後からついてくる」
っていう理想に縛られてたかも。
実際、欲しいものを「欲しい」って言ってたら、
どこかから舞い込んでくることはいっぱいあるし。
だけど、そこに縛られてるって気づいたから、
その気持ちをブロックするのもやめよ~っと!
今さら「お金欲しい~、尊敬されたい~」に
振り回されることもないだろうから。
あ、そこを無視しなかったら、
めっちゃいろんな人とわかり合える気がする。
楽しい!
最近考えてたいろんな断片が、
ここにきて少しずつ結び付いてきた気がする。