『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学13章40段落

2016年02月15日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学13章40段落

私たちは、何でもいいから快に向かって努力するのではない。
ある特定の欲(おなかがすいた、本が読みたい、など)に向かって、
快を満たそうとする。

だから、他の快がヨコにあっても、
そんなものでは満足できない。
おなかがすいているのに散歩ができるとか、
本が読みたいのに映画に行けるとかでは、満足できない。

快であれば何でもいいなら、それで満足できるはずなのに、
特定の欲に向かっているから、満足できない。
たとえ、快を上回る不快があるとしても、
欲が大きかったら、快に向かって歩む。

問題は、快が大きいか不快が大きいかではなく、
不快をしのぐほど欲が大きいかどうか、だ。
欲より不快が大きいいと、欲はなくなる。
不快より欲が大きいと、不快を越えてなお、欲を満たそうとする。

山を登るのがどんなに大変だとしても
上からの景色を見るのが好きな人なら、登るだろう。
景色を見る快と、山を登る不快の
どっちが大きいか比べて計算したりはしない。
景色を見たい、という思いが
山を登る大変さより大きいかどうかだ。


言い換えるなら、
欲さえ大きければどんな不快も乗り越えられる
ということですね。
なんと力強い!

別に高尚なことでなくても、
好きなアーティストが出る深夜ラジオを聞きたい
という欲を持つ高校生は、
次の朝、起きられなくてとても大変だ、という不快が
簡単に想像できたって、深夜にラジオを聞くのです。

そして、それは、家の人に
「いつまで起きてんの? 明日起きられないよ」と言われたって、
明日の朝が大変だという不快と、
ラジオを聞きたいという快を比べているのではなく、
ラジオを聞きたいという欲は
明日の朝大変だという不快を越えてなお大きいから、
やっぱり、親が何を言おうと、隠れてこっそり聞くのです。

なつかし(^^)。

今なら、何だろう。
庭の餌台に炊飯器に残ったご飯粒を出すのに、
寒いから今日はやんぴ~と思う不快と、
雀が来て餌を食べるのを見るかわいらしさとを比べて、
雀が近くで餌を食べている姿が見たい
という欲が大きければ、ご飯粒を出すのでしょう。

自分のことで考えてみると、
欲は特定のものに向かっていることがよくわかります。
誰でもいいから深夜ラジオを聞きたいのではなくて、
そのアーティストのラジオを聞きたいのです。
雀に近くに来て欲しいのであって、
カラスやネコに来て欲しいのではないのです。

親は「一緒だからコレでいいでしょ、喧嘩しないで!」
なんて、ふつーに子どもに言いますが、
子どもが聞かないのは、こういうことなんですね。
それじゃなくて、コレが欲しいのです。

たとえ、同じ積木セットの中の
色も形も同じ大きさの積木だったとしても、
それじゃなくてコレが欲しいのですね。
○○ちゃんが先に取った「コレ」が(^^;)。

一緒なんだけどね。
一緒じゃないのね。
おもしろいな~。

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