『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章1段落_3

2016年05月31日 | 『自由の哲学』

私たちが自分で考えることで、
現実の本当の姿を、まとまりのある全体像として
私たちに見せる。

一方、覚えが一人ひとりバラバラなのは、
私たちが一人ひとり違うから、
それに左右される見かけにすぎない。

覚えが一見カオスなのを越えて本当のことを知ることは、
いつの時代にも考えることの目標だった。
科学は客観的な覚えだけを現実だと決め、
その覚えに法則を見いだした。

しかし、人が考えて結びつけるあれこれが、
ただ、自分だけの主観的な考えだ、という立場を取ることで、
まるごと一つの全体の基礎を、
私たちが実験しても見ることができなもの
(思い設けた神や生物としての欲望、絶対精神など)に求めた。

そういう構えを骨組みとしながら、
実際に経験して理解できる範囲の知識を得ることに加えて、
経験できる以上の知識を、次のように得ようとした。
つまり、経験できるものとできないものとの関わりを、
自分で実際に経験できない以上、
想像して探して、形而上学という知識を得た。

推し量って得た形而上学の観点から、
私たちと世との関わりを、
なにか大きなもの、推し量った神か、
逆に、生物としてのDNAか、
何か、そういう私たちを動かしている者があり、
その者が欲する論理的な法則があるから、
私たちは世とこんな風に関わっているのだ、と見る。


世が一人ひとりに違うように見えるのはその通り。
私が色盲なら、世が違うように見えるだろうし、
私が難聴なら、また世が違うように見えるだろう。

一人ひとりどころか、自分の気分次第で、違って見える。
目が悪くなれば、耳が悪くなれば、また違って見えるだろうし、
心の状態によっても、ぜんぜん違う。

自分が怒っている時は、相手が幼稚に見えたり、
楽しい時は、相手がとてもステキに見えたり(^^;)。
同じものを見ていても、Aさんはいつも腹を立てていて、
Bさんは、いつも感謝している、なんてのもよくある事だ。

「だから、主観的なものは信頼できない、
客観的なものしか認めない」というのが科学。
だから、科学は、実験して再現できるものは認めるけど、
再現性のないものは無視する。
だって、再現性がなければ進まないもの…。

んで、そこがまたくせ者で、
実験して再現できるものだけを認めるから、
喜んだり苦しんだりする自分の心とか、
自分だけにわかる悟りとか考えとか、
そういうものが全部「当てにならないもの」として無視される。

いいんか~、そんなん無視して。
苦しいのが「主観的」ってのはわかってるけど、
そこを無視してたら、病気になるねんで~。
客観性と同じように、
自分の気持ちもちゃんと見ることができるし、
実体のあるものとして大事にしてあげられるねんで~。

生きることを通して得た知識と、
推し量って得た知識の違いって何だろ?

生きることを通して得た知識は、
自分が生きて学んだこと、
推し量って得た知識は、
アタマだけで考えて理解したこと。

たとえば、生きることを通して得た知識は、たとえば、
「食べ物に気をつけていたら、7年後に花粉症が治ってた、
でも、油断して免疫下がったら、とたんに再発するよ。
でも、3日ほどでまた、日常に戻れり」というもの。

子どもが生まれてから食べ物に気をつけていたら、
ホントに軽くなったのよ。
んで、手術の成功を祈りながら、半日待合室にこもっていたら、
治ったはずの花粉症が再発して、熱やくしゃみが出てしまい…。
そう、思い切り、自分だけの経験です。
これ、科学では、主観的だと無視される種類の、
生きることを通して得た知識です。

それに対して、推し量って得た知識ってのは、
「花粉症が治ることはない」とか、
「免疫が下がると、あちこち抵抗力がなくなる」とか、
「笑っていると、免疫が上がる」とか、そういう類のこと。

あ、ちょっと違う?
これは、誰かが科学的に研究して見つけた知識ですね。

えーと、でも同じように、
自分に何の確信もなく、誰かが言ったことに対して、
「そうなんだって~」と信じ込むこと。

「DNAが子孫を残すためにヒトを動かしてるんだって」とか、
「神を信じたら天国に行けるんだって」とか、そういうの。

その中には、自分が生きてない。
他人が「それは主観的だから」と却下するようなことでも、
自分が生きて確かめたことは、自分にとっては大切なこと。
自分にしかわからないことでも、それを元手に考えたらいい。
それは、自分にとって、とてもとても確かなことだから。

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