私たちが自分で考えることで、
現実の本当の姿を、まとまりのある全体像として
私たちに見せる。
一方、覚えが一人ひとりバラバラなのは、
私たちが一人ひとり違うから、
それに左右される見かけにすぎない。
覚えが一見カオスなのを越えて本当のことを知ることは、
いつの時代にも考えることの目標だった。
科学は客観的な覚えだけを現実だと決め、
その覚えに法則を見いだした。
しかし、人が考えて結びつけるあれこれが、
ただ、自分だけの主観的な考えだ、という立場を取ることで、
まるごと一つの全体の基礎を、
私たちが実験しても見ることができなもの
(思い設けた神や生物としての欲望、絶対精神など)に求めた。
そういう構えを骨組みとしながら、
実際に経験して理解できる範囲の知識を得ることに加えて、
経験できる以上の知識を、次のように得ようとした。
つまり、経験できるものとできないものとの関わりを、
自分で実際に経験できない以上、
想像して探して、形而上学という知識を得た。
推し量って得た形而上学の観点から、
私たちと世との関わりを、
なにか大きなもの、推し量った神か、
逆に、生物としてのDNAか、
何か、そういう私たちを動かしている者があり、
その者が欲する論理的な法則があるから、
私たちは世とこんな風に関わっているのだ、と見る。
※
世が一人ひとりに違うように見えるのはその通り。
私が色盲なら、世が違うように見えるだろうし、
私が難聴なら、また世が違うように見えるだろう。
一人ひとりどころか、自分の気分次第で、違って見える。
目が悪くなれば、耳が悪くなれば、また違って見えるだろうし、
心の状態によっても、ぜんぜん違う。
自分が怒っている時は、相手が幼稚に見えたり、
楽しい時は、相手がとてもステキに見えたり(^^;)。
同じものを見ていても、Aさんはいつも腹を立てていて、
Bさんは、いつも感謝している、なんてのもよくある事だ。
「だから、主観的なものは信頼できない、
客観的なものしか認めない」というのが科学。
だから、科学は、実験して再現できるものは認めるけど、
再現性のないものは無視する。
だって、再現性がなければ進まないもの…。
んで、そこがまたくせ者で、
実験して再現できるものだけを認めるから、
喜んだり苦しんだりする自分の心とか、
自分だけにわかる悟りとか考えとか、
そういうものが全部「当てにならないもの」として無視される。
いいんか~、そんなん無視して。
苦しいのが「主観的」ってのはわかってるけど、
そこを無視してたら、病気になるねんで~。
客観性と同じように、
自分の気持ちもちゃんと見ることができるし、
実体のあるものとして大事にしてあげられるねんで~。
生きることを通して得た知識と、
推し量って得た知識の違いって何だろ?
生きることを通して得た知識は、
自分が生きて学んだこと、
推し量って得た知識は、
アタマだけで考えて理解したこと。
たとえば、生きることを通して得た知識は、たとえば、
「食べ物に気をつけていたら、7年後に花粉症が治ってた、
でも、油断して免疫下がったら、とたんに再発するよ。
でも、3日ほどでまた、日常に戻れり」というもの。
子どもが生まれてから食べ物に気をつけていたら、
ホントに軽くなったのよ。
んで、手術の成功を祈りながら、半日待合室にこもっていたら、
治ったはずの花粉症が再発して、熱やくしゃみが出てしまい…。
そう、思い切り、自分だけの経験です。
これ、科学では、主観的だと無視される種類の、
生きることを通して得た知識です。
それに対して、推し量って得た知識ってのは、
「花粉症が治ることはない」とか、
「免疫が下がると、あちこち抵抗力がなくなる」とか、
「笑っていると、免疫が上がる」とか、そういう類のこと。
あ、ちょっと違う?
これは、誰かが科学的に研究して見つけた知識ですね。
えーと、でも同じように、
自分に何の確信もなく、誰かが言ったことに対して、
「そうなんだって~」と信じ込むこと。
「DNAが子孫を残すためにヒトを動かしてるんだって」とか、
「神を信じたら天国に行けるんだって」とか、そういうの。
その中には、自分が生きてない。
他人が「それは主観的だから」と却下するようなことでも、
自分が生きて確かめたことは、自分にとっては大切なこと。
自分にしかわからないことでも、それを元手に考えたらいい。
それは、自分にとって、とてもとても確かなことだから。
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