人の存在は、ただの一人も世から孤立していない。
一人ひとりの人は、まるごと世の一部であり、
宇宙全体のまるごとと実際につながって存在している。
ただ、そのつながりが、
私たちの覚えにとって、別々に見えるだけだ。
私たちは最初、自分が宇宙の中で一人きりで、
誰ともつながっていないように見る。
なぜなら、自分の人生を動かす歯車に、
宇宙の基の力を伝えるベルトや綱を見ないからだ。
そのつながりを見ようとしない立場のままでいる人は、
一人の人はそれぞれに一人きりだから、
内からでも、仲間からでもなく、
世の知らせをそれぞれ個別に外から得ようとするのが人だ、
と見なすだろう。
ここに言う一元論が示すのは、
一人の人がどこにもつながっていない孤独な存在だと信じる人は、
それぞれに見たり考えたりした事を、いったん考え、
全体の考えの世界の網の目に織り込もうとしない。
もし、個別の覚えを自分の考えによって
全体に織り込むことができたら、
個々別々に見える事柄も、
ただの覚えの見せかけだということがわかる。
その個別の覚えが、まるごとの全体の中に納まっている
ということを、見つけられるためには、
一人ひとりが「悟る」という行為に至ることが必要だ。
考えるという行為は、バラバラの覚えを突き破り、
私たち一人ひとりの存在を、
調和のとれた宇宙まるごとのひとかけらとする。
外からの覚えを自分の中に取り込んで、
全体の世に至る「考えることで一つである世」は、
また、それを覚えている自分の人となりをも
自分の中に取り込む。
※
「人は、覚えることで一人ひとり独立してあり、
考えることで、全体がひとつになる」。
このことが、頭だけでもわかる安心感ってすごい。
だけど、意識しなければ、正解や理想を外に求めがちだ。
もっと彼氏がこうだったらいいのに、とか。
もっとこんな環境で子育てしたい、とか。
ここじゃないどこかに、自分を生かす職場がある、みたいな。
まぁ、それも考えてみたらいいんだけど、
よく考えてみたら、ここにすべてがある、
と気づく場合も多い。
子どもが反抗期だから、どー対応しようか、と
ママ友に聞いてみたり、子育て本を山盛り読んだりして、
外から答えを見つけようとするよりも、
その子自身とじっくり向き合って話してみる方が、
100倍早く答えが見つかったりして。
あるいは、夫としっくりこないのを、
夫のあれこれのせいにしてみても埒が明かないけど、
自分の中をよく見てみたら、そこに答えがあったりして。
いや、そういう話じゃなくて、
(いや、そういう話でもあるんだけど)、
もし、どこか私たちが知らない所に英知の歯車があって、
それに私たちが知らず知らずのうちに動かされている、
という考え方をしていたら、
自分と全体をつなぐロープが見えなくて、どんどん孤独になるね。
それよりも、
私たちは全体の一部であり、
自分の中にある英知の歯車が
世を動かす歯車ときちんとかみ合ってると思えば、
私たちが自分や周りを良く見て、自分で考えることで、
世の法則がわかるし、孤独でもなくなる。
まあ、キツネもタヌキも神様、木も石も神様、
という日本文化の中で育った私は、
どこか遠い所に英知がある、とかは思わないんだけどね。
よく知らないなりに、
アイヌの方とかも、そんな感じじゃないかなと想像する。
世界中のあらゆるところに英知があふれてて、
それを見つけるには、ただ自分の心をで静かにするだけでいい、
逆に、自分の心が騒がしかったら、あるものも見えない、
みたいな感覚です。
一方、それと逆なのは、
「親会社様のおっしゃる通り~~」と、質問も許されず、
まぁ、許されたとしても、互いの時間の無駄で、
「言う通りにしてたら守ってやる」みたいなのが、
たぶん、一般的な外資系の企業文化。
「勝ち残るために」っていう基本姿勢が、どうも苦手…。
で、それぞれ個別の人は、とても一所懸命で善良なの。
それって、なんだかな~、です。
「人類が生き残るために」その優秀な能力を使ったら、
おもしろい展開になると思うんだけどね~。
と、寝言を言ってみる。
寝言も言わないよりマシじゃない?
ふさわしくない場所では言わないようにはしてるけどさ。
日本人的には、
個々の事情を鑑みて、和を以て尊しとするのさ。
ああ、なんて効率の悪い。
でも…効率悪くてもいいじゃん。
一人ひとりの人としての気概を問うあいまいさの方が、
杓子定規な訴訟社会より、よっぽど効率いいと思うわ。
どこを大切に生きたいのか、
どのくらいのバランスでどう生きたいのか。
現状を見て、自分を見て、考えるのは自由です。
そしたら、全体に包まれて全体の一節である自分が見える、
っつーことですね。
一人ひとりの人は、まるごと世の一部であり、
宇宙全体のまるごとと実際につながって存在している。
ただ、そのつながりが、
私たちの覚えにとって、別々に見えるだけだ。
私たちは最初、自分が宇宙の中で一人きりで、
誰ともつながっていないように見る。
なぜなら、自分の人生を動かす歯車に、
宇宙の基の力を伝えるベルトや綱を見ないからだ。
そのつながりを見ようとしない立場のままでいる人は、
一人の人はそれぞれに一人きりだから、
内からでも、仲間からでもなく、
世の知らせをそれぞれ個別に外から得ようとするのが人だ、
と見なすだろう。
ここに言う一元論が示すのは、
一人の人がどこにもつながっていない孤独な存在だと信じる人は、
それぞれに見たり考えたりした事を、いったん考え、
全体の考えの世界の網の目に織り込もうとしない。
もし、個別の覚えを自分の考えによって
全体に織り込むことができたら、
個々別々に見える事柄も、
ただの覚えの見せかけだということがわかる。
その個別の覚えが、まるごとの全体の中に納まっている
ということを、見つけられるためには、
一人ひとりが「悟る」という行為に至ることが必要だ。
考えるという行為は、バラバラの覚えを突き破り、
私たち一人ひとりの存在を、
調和のとれた宇宙まるごとのひとかけらとする。
外からの覚えを自分の中に取り込んで、
全体の世に至る「考えることで一つである世」は、
また、それを覚えている自分の人となりをも
自分の中に取り込む。
※
「人は、覚えることで一人ひとり独立してあり、
考えることで、全体がひとつになる」。
このことが、頭だけでもわかる安心感ってすごい。
だけど、意識しなければ、正解や理想を外に求めがちだ。
もっと彼氏がこうだったらいいのに、とか。
もっとこんな環境で子育てしたい、とか。
ここじゃないどこかに、自分を生かす職場がある、みたいな。
まぁ、それも考えてみたらいいんだけど、
よく考えてみたら、ここにすべてがある、
と気づく場合も多い。
子どもが反抗期だから、どー対応しようか、と
ママ友に聞いてみたり、子育て本を山盛り読んだりして、
外から答えを見つけようとするよりも、
その子自身とじっくり向き合って話してみる方が、
100倍早く答えが見つかったりして。
あるいは、夫としっくりこないのを、
夫のあれこれのせいにしてみても埒が明かないけど、
自分の中をよく見てみたら、そこに答えがあったりして。
いや、そういう話じゃなくて、
(いや、そういう話でもあるんだけど)、
もし、どこか私たちが知らない所に英知の歯車があって、
それに私たちが知らず知らずのうちに動かされている、
という考え方をしていたら、
自分と全体をつなぐロープが見えなくて、どんどん孤独になるね。
それよりも、
私たちは全体の一部であり、
自分の中にある英知の歯車が
世を動かす歯車ときちんとかみ合ってると思えば、
私たちが自分や周りを良く見て、自分で考えることで、
世の法則がわかるし、孤独でもなくなる。
まあ、キツネもタヌキも神様、木も石も神様、
という日本文化の中で育った私は、
どこか遠い所に英知がある、とかは思わないんだけどね。
よく知らないなりに、
アイヌの方とかも、そんな感じじゃないかなと想像する。
世界中のあらゆるところに英知があふれてて、
それを見つけるには、ただ自分の心をで静かにするだけでいい、
逆に、自分の心が騒がしかったら、あるものも見えない、
みたいな感覚です。
一方、それと逆なのは、
「親会社様のおっしゃる通り~~」と、質問も許されず、
まぁ、許されたとしても、互いの時間の無駄で、
「言う通りにしてたら守ってやる」みたいなのが、
たぶん、一般的な外資系の企業文化。
「勝ち残るために」っていう基本姿勢が、どうも苦手…。
で、それぞれ個別の人は、とても一所懸命で善良なの。
それって、なんだかな~、です。
「人類が生き残るために」その優秀な能力を使ったら、
おもしろい展開になると思うんだけどね~。
と、寝言を言ってみる。
寝言も言わないよりマシじゃない?
ふさわしくない場所では言わないようにはしてるけどさ。
日本人的には、
個々の事情を鑑みて、和を以て尊しとするのさ。
ああ、なんて効率の悪い。
でも…効率悪くてもいいじゃん。
一人ひとりの人としての気概を問うあいまいさの方が、
杓子定規な訴訟社会より、よっぽど効率いいと思うわ。
どこを大切に生きたいのか、
どのくらいのバランスでどう生きたいのか。
現状を見て、自分を見て、考えるのは自由です。
そしたら、全体に包まれて全体の一節である自分が見える、
っつーことですね。
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