『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章1段落_2

2016年05月28日 | 『自由の哲学』
人の存在は、ただの一人も世から孤立していない。
一人ひとりの人は、まるごと世の一部であり、
宇宙全体のまるごとと実際につながって存在している。
ただ、そのつながりが、
私たちの覚えにとって、別々に見えるだけだ。

私たちは最初、自分が宇宙の中で一人きりで、
誰ともつながっていないように見る。
なぜなら、自分の人生を動かす歯車に、
宇宙の基の力を伝えるベルトや綱を見ないからだ。

そのつながりを見ようとしない立場のままでいる人は、
一人の人はそれぞれに一人きりだから、
内からでも、仲間からでもなく、
世の知らせをそれぞれ個別に外から得ようとするのが人だ、
と見なすだろう。

ここに言う一元論が示すのは、
一人の人がどこにもつながっていない孤独な存在だと信じる人は、
それぞれに見たり考えたりした事を、いったん考え、
全体の考えの世界の網の目に織り込もうとしない。

もし、個別の覚えを自分の考えによって
全体に織り込むことができたら、
個々別々に見える事柄も、
ただの覚えの見せかけだということがわかる。

その個別の覚えが、まるごとの全体の中に納まっている
ということを、見つけられるためには、
一人ひとりが「悟る」という行為に至ることが必要だ。

考えるという行為は、バラバラの覚えを突き破り、
私たち一人ひとりの存在を、
調和のとれた宇宙まるごとのひとかけらとする。

外からの覚えを自分の中に取り込んで、
全体の世に至る「考えることで一つである世」は、
また、それを覚えている自分の人となりをも
自分の中に取り込む。


「人は、覚えることで一人ひとり独立してあり、
考えることで、全体がひとつになる」。
このことが、頭だけでもわかる安心感ってすごい。

だけど、意識しなければ、正解や理想を外に求めがちだ。
もっと彼氏がこうだったらいいのに、とか。
もっとこんな環境で子育てしたい、とか。
ここじゃないどこかに、自分を生かす職場がある、みたいな。

まぁ、それも考えてみたらいいんだけど、
よく考えてみたら、ここにすべてがある、
と気づく場合も多い。

子どもが反抗期だから、どー対応しようか、と
ママ友に聞いてみたり、子育て本を山盛り読んだりして、
外から答えを見つけようとするよりも、
その子自身とじっくり向き合って話してみる方が、
100倍早く答えが見つかったりして。

あるいは、夫としっくりこないのを、
夫のあれこれのせいにしてみても埒が明かないけど、
自分の中をよく見てみたら、そこに答えがあったりして。

いや、そういう話じゃなくて、
(いや、そういう話でもあるんだけど)、
もし、どこか私たちが知らない所に英知の歯車があって、
それに私たちが知らず知らずのうちに動かされている、
という考え方をしていたら、
自分と全体をつなぐロープが見えなくて、どんどん孤独になるね。

それよりも、
私たちは全体の一部であり、
自分の中にある英知の歯車が
世を動かす歯車ときちんとかみ合ってると思えば、
私たちが自分や周りを良く見て、自分で考えることで、
世の法則がわかるし、孤独でもなくなる。

まあ、キツネもタヌキも神様、木も石も神様、
という日本文化の中で育った私は、
どこか遠い所に英知がある、とかは思わないんだけどね。
よく知らないなりに、
アイヌの方とかも、そんな感じじゃないかなと想像する。

世界中のあらゆるところに英知があふれてて、
それを見つけるには、ただ自分の心をで静かにするだけでいい、
逆に、自分の心が騒がしかったら、あるものも見えない、
みたいな感覚です。

一方、それと逆なのは、
「親会社様のおっしゃる通り~~」と、質問も許されず、
まぁ、許されたとしても、互いの時間の無駄で、
「言う通りにしてたら守ってやる」みたいなのが、
たぶん、一般的な外資系の企業文化。

「勝ち残るために」っていう基本姿勢が、どうも苦手…。
で、それぞれ個別の人は、とても一所懸命で善良なの。
それって、なんだかな~、です。
「人類が生き残るために」その優秀な能力を使ったら、
おもしろい展開になると思うんだけどね~。
と、寝言を言ってみる。

寝言も言わないよりマシじゃない?
ふさわしくない場所では言わないようにはしてるけどさ。

日本人的には、
個々の事情を鑑みて、和を以て尊しとするのさ。
ああ、なんて効率の悪い。

でも…効率悪くてもいいじゃん。
一人ひとりの人としての気概を問うあいまいさの方が、
杓子定規な訴訟社会より、よっぽど効率いいと思うわ。

どこを大切に生きたいのか、
どのくらいのバランスでどう生きたいのか。
現状を見て、自分を見て、考えるのは自由です。
そしたら、全体に包まれて全体の一節である自分が見える、
っつーことですね。

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