書く道具にはあれこれこだわりがある。
そして、書く内容と道具の相性も
なんとなく決まっているようだ。
一番オフィシャルな書き物。
取材に持っていくのは、ポメラ二世。
軽いし、変換がカシコクなったから、
話を聞きながらその場で入力。
帰ってからテキストデータを加工する。
このブログはPCで書いている。
毎日、書きたいテーマで好きなように書いているけど
公開しているからには当然、読んでくださる方を意識している。
写真の加工もあるし、キーは軽いし、定番の安心感。
誰にも見せない日記は手書き。
お気に入りの万年筆で、
3~4日に1回、5年連用日記に書いている。
一度に3~4日分のボリュームを書くけど、
一番オフィシャルな書き物。
取材に持っていくのは、ポメラ二世。
軽いし、変換がカシコクなったから、
話を聞きながらその場で入力。
帰ってからテキストデータを加工する。
このブログはPCで書いている。
毎日、書きたいテーマで好きなように書いているけど
公開しているからには当然、読んでくださる方を意識している。
写真の加工もあるし、キーは軽いし、定番の安心感。
誰にも見せない日記は手書き。
お気に入りの万年筆で、
3~4日に1回、5年連用日記に書いている。
一度に3~4日分のボリュームを書くけど、
何日も書かない時も続くから365日分がスカスカ(^^;)。
日記よりもさらにプライベートなもの、
毒を吐いたり、ぐちゃぐちゃの頭を整理するために書く時は、
軽い力でさらさら書けるサインペン。
紙だって、コピー用紙でも子どもの使い残しのノートでも
何でもいい。なにせ、ボリュームが命。
この時は、自分の不適切発言を見張る検閲官を黙らせて、
心に浮かぶまま、ひたすら手を止めずに、
頭をよぎる最低な考えも、自分中心の打算も、
ずるくて卑怯な心も、見える限り、出して出して出しまくる。
昨日、久しぶりに手書きで殴り書きしていてふと思ったんだけど、
キーボードばっかり叩いていたら、
自分の中にある見たくないものに
向き合わないままでいられるんだな~って。
だって、外向きだもの。
意識の世界では、自分をいいヤツだと思いたがるんだけど、
それは、もしかして、自分のワルモノ要素を知っているから、
反作用として、わざわざ「いいヤツ」だと思いたがるのかもしれない。
いいヤツ要素だけな人間なんかいないし!!
ワルモノ要素を放置しすぎて腐臭がしてきたら、
思い切ってガンガン書き出してみるようにしている。
そして、「うわ~、こんなん出てきたわ!!」と驚き、
しかる後に「よくコレを出さずに、社会人として生きてたなぁ」
って、自分のガンバリを認識する。
自分のおなかの中で腐っていた自分のワルモノの種は、
意識の光を当ててあげることで、
他者への理解や弱さへの思いやりという形に、
育ってくれる可能性を秘めている。
「自分の中にあるワルモノの種を見てしまうと、
ワルモノが大きく育つと大変だ、
だから見ない方がいい」と
「この世は目に見えるものしか認めません。
ゆえに、私にワルモノ要素はありません」。
本当にそうなのか。
心や精神は見えないけど、確かにある。
何より、自分が知っている。
そんな風に思うんだけど、
しんどすぎる事には、
その事に向き合わなくてもいいように、
心がちゃんと時を教えてくれる。
「今じゃないよ~」って。
だって、向き合うのってしんどいもの。
特に、いい加減に生きてきた私には。
ワルモノの種は、自分がその時にどんな光を当てるかで、
育ち方が変わっていくのが特徴。
まわりの人の傷を治す葉っぱが育つ事もあれば、
自分と同じ弱い人を攻撃する棘が育つ事もある。
だから、ワルモノの種に自分が食われる時は、
それで、少しずつ自分のワルモノを
日記よりもさらにプライベートなもの、
毒を吐いたり、ぐちゃぐちゃの頭を整理するために書く時は、
軽い力でさらさら書けるサインペン。
紙だって、コピー用紙でも子どもの使い残しのノートでも
何でもいい。なにせ、ボリュームが命。
この時は、自分の不適切発言を見張る検閲官を黙らせて、
心に浮かぶまま、ひたすら手を止めずに、
頭をよぎる最低な考えも、自分中心の打算も、
ずるくて卑怯な心も、見える限り、出して出して出しまくる。
昨日、久しぶりに手書きで殴り書きしていてふと思ったんだけど、
キーボードばっかり叩いていたら、
自分の中にある見たくないものに
向き合わないままでいられるんだな~って。
だって、外向きだもの。
意識の世界では、自分をいいヤツだと思いたがるんだけど、
それは、もしかして、自分のワルモノ要素を知っているから、
反作用として、わざわざ「いいヤツ」だと思いたがるのかもしれない。
いいヤツ要素だけな人間なんかいないし!!
ワルモノ要素を放置しすぎて腐臭がしてきたら、
思い切ってガンガン書き出してみるようにしている。
そして、「うわ~、こんなん出てきたわ!!」と驚き、
しかる後に「よくコレを出さずに、社会人として生きてたなぁ」
って、自分のガンバリを認識する。
自分のおなかの中で腐っていた自分のワルモノの種は、
意識の光を当ててあげることで、
他者への理解や弱さへの思いやりという形に、
育ってくれる可能性を秘めている。
「自分の中にあるワルモノの種を見てしまうと、
ワルモノが大きく育つと大変だ、
だから見ない方がいい」と
思ってきたんだけど。
宗教もすたれて、自然科学全盛の世の中。
宗教もすたれて、自然科学全盛の世の中。
「この世は目に見えるものしか認めません。
ゆえに、私にワルモノ要素はありません」。
本当にそうなのか。
心や精神は見えないけど、確かにある。
自然科学の方法というか前提である
証拠や再現性が明示できなくても、
証拠や再現性が明示できなくても、
何より、自分が知っている。
そんな風に思うんだけど、
しんどすぎる事には、
その事に向き合わなくてもいいように、
心がちゃんと時を教えてくれる。
「今じゃないよ~」って。
だって、向き合うのってしんどいもの。
特に、いい加減に生きてきた私には。
ワルモノの種は、自分がその時にどんな光を当てるかで、
育ち方が変わっていくのが特徴。
まわりの人の傷を治す葉っぱが育つ事もあれば、
自分と同じ弱い人を攻撃する棘が育つ事もある。
だから、ワルモノの種に自分が食われる時は、
そこに向き合わないこと、
そして、光を当てられるかなと思ったら、
そーっと開いて見てみること。
それで、少しずつ自分のワルモノを
成仏させて行けたらいいな。
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