1、欲が強すぎることを差し引くこと、
2、感情の幻想を取り除くこと によって、
ひたすら理性的に快・不快の決算をしようとする人が
人から認められたい気持ちの強い人だったとしよう。
その人は、したことが認められてすごく喜び、
見くびられた傷は小さく見るメガネをかけて、
自分の快・不快を決算するだろう。
以前、見くびられたことに傷ついたのも、
自分の質が関係するのだけれど、
思い出す時には、見くびられたことは小さくなっていて、
認められたことは、とても大きく深い喜びとなって刻まれる。
そのように帳簿の数字が変わるのは、
本人にとっては幸せなことだけど、
自分の質が影響している分だけ、冷静の数字にならない。
今では小さく感じられる傷も、
その時はとても痛かったはず。
人生の帳簿に付ける数字として、
小さくなった傷を付けるのは間違いだ。
すなわち、正しい判断のためには、
自分の質を引き去ることが必要だ。
自分の過去を色眼鏡ナシで、精神の目で見なければならない。
でないと、商人が自分の帳簿の決算に
結果でなく「がんばった分」の気持ちを
プラスの側に加えるような、変なものになってしまう。
※
ひたすら理性的になれ、と言っている。
理性的になって、がんばった分は帳簿に付けちゃダメだよ、と。
う~む、人生の帳簿には、商売の帳簿のように、
収益の結果の数字しかつけちゃいけないんだろうか。
それで思い当たるのが、学校の個人懇談。
たとえば、子どもは、何が得意で、何はここでつまづいていて、
ここはこういう思いこみで進めなかったけど今は…という、
勉強の話ばっかりされたとする。
「子どもは、クラスの中でどんな存在なのか」とか、
「この4月から、子どもにどういう変化があったか」とか、
そういう、勉強以外のことが聞きたいと思って、
「クラスの中では、どういう存在ですか?
たとえば、休み時間はどんな感じで過ごしてますか?」と聞いても
「お友達と元気に遊んでますよ。○○さんとは仲がいいですね~」
と言われたりしたら…。
その座標軸は、とても貧弱です。
勉強以外のこと、個性の際だつところや、素晴らしいところ、
得意なことや、乗り越えようとしていることなどなど、
もっといろいろ、伝えるべきことはあるはずなのに。
そりゃ、元気に遊んでたら、一応、安心はするけど、
友達と元気に飛び跳ねてなくても、
その子らしく何かに集中して静かにしてるなら、
それは素晴らしいことだし、そこにこそ個性が現れるってもんです。
このハルトマンの「理性で帳簿をつけなさい」というくだり、
それと同じことを感じます。
理性しか、勉強しか、座標軸に置けない、
帳簿をつける側の貧しさを。
好きなことに夢中になる喜び、
できるかどうか挑戦してみる前向きな意欲、
そして何かに挑戦し、失敗した時の喜怒哀楽の瑞々しさ…。
そういう豊かな感情や意欲を、完璧に無視しちゃってる感があって、
なんか、一面的で薄っぺらいなぁ~と感じます。
人って、数字じゃないとこで生きてると思うんだけどな。
会社の悩みは、収入や休みとかじゃなくて、
人間関係が一番だって聞くし。
「人生の帳簿には、
成績だけとか、収入だけとか、理性で判断できることだけを
付けなさい、それが正解です」と言われたら、
「わかってないな~」と感じます。
そんな帳簿「まぁ、つけたきゃご自由に」って感じで、
それで人生の快・不快の答えが出るとは、
私にはとうてい思えません。
成績や収入って、そんなにスゴイものなの?って。
…しつこい?
コンプレックス混ざってたらゴメンなさい(^^;)。
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