ハルトマンのように考える人が筋を通すなら、
次のように信じるだろう。
いきる値をふさわしくはj引き出すには、
快・不快についての判断をゆがめる主観的なものを除く必要がある。
そうするには、二通りの除き方がある。
1、欲求が大きすいて結果にゆがみが生じてるんじゃないの?
性欲が強い時には、冷静な時以上の幻想の快楽を味わうけど、
楽しみたいから、苦しみに目を向けないのだ。
2、その感情がもとになって幻想が生まれてるだけじゃないの?
(そのブランドバック、ほんとにいいの?)
ラーメンの味、わかってんの?
そのバック、はやってるだけでホントはたいしたことないかもよ?
という、理性で、自分の中の幻想を葬ることができる。
※
自分の欲を除き、感情が幻想じゃないかと疑うことで、
やっと、真実の「生きる値」が出る
と、ハルトマンは言う。
まぁ、一理あります。
おなかがすいていたらどんなラーメンでもおいしい。
だから、グルメ雑誌なんかの取材時には、
何件も続けてお店には行かない方がいいのです。
だって、おなかいっぱいの時には、
あきらかに味が落ちると感じるから。
でも、時間とギャラとの兼ね合いで、
何件も続けて行ったり、食べないまま書かざるを得ないこともあり、
WEBが広がるとともに、グルメ雑誌は、
あっと言う間に自腹のシロウトさんの投稿に淘汰されました。
評判のラーメン屋さんは、食べてみてはじめて
おいしいかどうかがわかります。
しかも、極端におなかが減ってたり、おなかいっぱいの時には、
客観的で冷静な味の判断ができません。
それを言ってるのが1つ目。
2つ目は、
認識するには情を理性のまな板に載せなきゃね、と。
たとえば、
「○○軒のラーメンっておいしいよね」という口コミで、
おいしいって思いこんでいるけど、
それって、イメージ戦略に基づく幻想じゃないの?
と、理性で後追いしていくと、
幻想がはがれて、等身大のラーメンの味がわかる、ということです。
「見て、考えて」という、
第1章でイヤってほど出てきたプロセスをたどることで、
自分がとらわれている思いこみや幻想から自由になれる、
ということです。
まぁ、一理あります。
思いこみや幻想は、宣伝や口コミによって、
めちゃくちゃ簡単に私たちを捕らえます。
昔の比ではありません。
これが書かれてから100年が経って、
「納豆が何かに効く」と朝のテレビで放映されれば、
午後にはスーパーから納豆がなくなるほど、
私たちはますます自分で考えなくなっています。
「情を理性にさらす」というのは
そこから抜け出すには、とても有効な方法です。
自分で実際に試してみて、自分で答えを出すことができるのですから。
ただ、私はよくやってしまうのですが、
「ただの流行ものだからね」と冷たく見ることで、
そのものの価値を不当に下げてしまうことがあります。
流行っていることを知らなければ楽しめたのに、
知ってしまったばかりに、冷静に対処して、
「ワクワク」や「おいしい~」を味わい損ねることもあります。
それとか、先に頭が先走ってしまって、
感情に優劣をつけてしまうこともあります。
たとえば、マンガを読むのも物語を読むのも、
どっちも楽しいなら、その感情はどちらも「快」なのに、
ついつい、マンガは低い快で、物語は高い快だと決めそうになります。
子どもがいつまでもマンガに読みふけっていると、
つい「宿題は?」と邪魔をしてしまったり。
「快」はココロが感じることなので、優劣はないはずなのに、
他人が優劣を決めるなんて、迷惑ですね~。
ハルトマンは、感じることの値を見過ごしているのかもしれません。
マンガも物語も、ココロにとっては同じように楽しい。
本当に理性的であるなら、
その感情をあるがままに受け止め、両方、尊重することができるはず。
自分のことなら、おいしいと思ったものが添加物満載だったり、
本物だと思っていたものがニセモノだったり、
そんな時に、それまで満足していた
「おいしい♪」とか「ステキ!」とかの気持ちが、
しゅぅぅ~~としぼんでしまうことがあります。
だからって、それまで味わっていた
「おいしい!」や「ステキ!」は、確かにあったのに、
それが消えてしまったような気がして、
「私って見る目ないのかしら」と意味不明に自信を失ったり。
理性的な目で、冷静に判断できることを「自由」と言うのは、
これまたちょっとズレるような気がします。
せっかく「おいしい」「ステキ」と思っていたココロが、
理性にねじふせられたようで、ちょっとかわいそう…かな。
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