『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章2段落_2

2016年08月30日 | 『自由の哲学』
代わりに一元論は、人が現実に生きることは、
人が覚えられない神や精神世界などを設定しなくても、
確かにそこに意味がある、と告げる。

一元論は、現実の意味を、
人が経験できないものに求めない。
なぜなら、
経験の中身そのものが現実だと知っているからだ。

そして、一元論は、その現実だけで完結している。
なぜなら、考えるという働きそのものに、
現実を現実として立証する力があることを
知っているからだ。

二元論が、現実の世の向こうに求めるものを、
一元論は、現実の世、そのものの中に求める。

一元論が示すには、私たちは知る(考える+覚える)ことで、
現実の中の真実を捉える。
人と現実の間に紛れ込んで勝手に描く
主観的な像ではなく、だ。

一元論にとって、考えることで到達する世の現実は、
どの人にとっても、同じものだ。

一元論の原理から言うと、
ある人が他の人を仲間だと見てとるのは、
二人のうちに同じ世の内容があるからだ。

この一つきりしかない世には、
たとえば、ライオンという考えがいくつもあるのではなく、
ただ一つの「ライオン」という概念があるだけだ。

誰かが「ライオン」を見て捉える考えは、
他の誰かが「ライオン」を見て捉える考えと同じだ。
ただ、それが別の人間を通して捉えられるだけのことだ。
(だから、違うように見えるだけだ。)


濃いなぁ。
どこを取り上げて考えようか。

まず、一元論はすべて、見えるものも見えないものも、
ものというものの中にすべての真実がある、と言う。
覚えと考えを重ねることで、
必要なことはすべて解き明かすことができる、と。

いや、そんなこと言われても、
解き明かせないことだらけですけど…。
と思うんだけど、それは、
まだ自分が成長していないから、という所。

成長するに伴って、ものが自ら語ってくれる言葉を
受け取れるようになる。
…って、どういうこと?

絵を見るとする。
好き嫌いはあるけど、いい悪いはわかんない。
知識があれば、安心して「この絵はココがいいね」とか
知ったかぶりに言える。
自分でどう感じてるかはどこかに置いといても。

その方向は、自分がどこにもいない。
自由になりゆくのは、そういう方向じゃない。
誰に見栄張ってんだか(^^)??

たくさんの絵の中から「この絵が、好き」
ってのは、誰でもあると思う。
理由はわかんないけど、なぜか魅かれる。
よく見ると、いろんなことが伝わって来る。

また10年か20年ほど経って、
またその絵を見る機会に恵まれたとして、
今度は、別にサラッと通り過ぎるかもしれない。
また、強烈な印象で魅きつけられるかもしれない。

その時は、またマジマジと見るんだろうな。
「この絵、昔も好きだったな~」って。
その時に絵が伝えてくることは、
10年前とは違うはずだ。
同じだったらこっちが成長してないってこと。

…っていう見方が、一元論。

二元論は、きっと、その絵についての勉強をするの。
専門家がアレコレ研究した結果を、
ネットとか雑誌で見たりして、
その絵や作家についてのウンチクがいっぱいあるの。

それを元に、絵が素直に見えるならいい。
それが一番いいかもしれない。

自分がどう感じるのか、自分がどう見るのかを、
その知識に邪魔されずに、素直に受け取ること。
知識があることに安心しちゃわないで、
絵そのものと、真摯に向き合うこと。

それが出来た時に、
その絵は知識だけじゃないものを、
その人に解き明かしてくれるはず。
知識だけ、向き合うだけよりも、もっと多くを。

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