代わりに一元論は、人が現実に生きることは、
人が覚えられない神や精神世界などを設定しなくても、
確かにそこに意味がある、と告げる。
一元論は、現実の意味を、
人が経験できないものに求めない。
なぜなら、
経験の中身そのものが現実だと知っているからだ。
そして、一元論は、その現実だけで完結している。
なぜなら、考えるという働きそのものに、
現実を現実として立証する力があることを
知っているからだ。
二元論が、現実の世の向こうに求めるものを、
一元論は、現実の世、そのものの中に求める。
一元論が示すには、私たちは知る(考える+覚える)ことで、
現実の中の真実を捉える。
人と現実の間に紛れ込んで勝手に描く
主観的な像ではなく、だ。
一元論にとって、考えることで到達する世の現実は、
どの人にとっても、同じものだ。
一元論の原理から言うと、
ある人が他の人を仲間だと見てとるのは、
二人のうちに同じ世の内容があるからだ。
この一つきりしかない世には、
たとえば、ライオンという考えがいくつもあるのではなく、
ただ一つの「ライオン」という概念があるだけだ。
誰かが「ライオン」を見て捉える考えは、
他の誰かが「ライオン」を見て捉える考えと同じだ。
ただ、それが別の人間を通して捉えられるだけのことだ。
(だから、違うように見えるだけだ。)
※
濃いなぁ。
どこを取り上げて考えようか。
まず、一元論はすべて、見えるものも見えないものも、
ものというものの中にすべての真実がある、と言う。
覚えと考えを重ねることで、
必要なことはすべて解き明かすことができる、と。
いや、そんなこと言われても、
解き明かせないことだらけですけど…。
と思うんだけど、それは、
まだ自分が成長していないから、という所。
成長するに伴って、ものが自ら語ってくれる言葉を
受け取れるようになる。
…って、どういうこと?
絵を見るとする。
好き嫌いはあるけど、いい悪いはわかんない。
知識があれば、安心して「この絵はココがいいね」とか
知ったかぶりに言える。
自分でどう感じてるかはどこかに置いといても。
その方向は、自分がどこにもいない。
自由になりゆくのは、そういう方向じゃない。
誰に見栄張ってんだか(^^)??
たくさんの絵の中から「この絵が、好き」
ってのは、誰でもあると思う。
理由はわかんないけど、なぜか魅かれる。
よく見ると、いろんなことが伝わって来る。
また10年か20年ほど経って、
またその絵を見る機会に恵まれたとして、
今度は、別にサラッと通り過ぎるかもしれない。
また、強烈な印象で魅きつけられるかもしれない。
その時は、またマジマジと見るんだろうな。
「この絵、昔も好きだったな~」って。
その時に絵が伝えてくることは、
10年前とは違うはずだ。
同じだったらこっちが成長してないってこと。
…っていう見方が、一元論。
二元論は、きっと、その絵についての勉強をするの。
専門家がアレコレ研究した結果を、
ネットとか雑誌で見たりして、
その絵や作家についてのウンチクがいっぱいあるの。
それを元に、絵が素直に見えるならいい。
それが一番いいかもしれない。
自分がどう感じるのか、自分がどう見るのかを、
その知識に邪魔されずに、素直に受け取ること。
知識があることに安心しちゃわないで、
絵そのものと、真摯に向き合うこと。
それが出来た時に、
その絵は知識だけじゃないものを、
その人に解き明かしてくれるはず。
知識だけ、向き合うだけよりも、もっと多くを。
人が覚えられない神や精神世界などを設定しなくても、
確かにそこに意味がある、と告げる。
一元論は、現実の意味を、
人が経験できないものに求めない。
なぜなら、
経験の中身そのものが現実だと知っているからだ。
そして、一元論は、その現実だけで完結している。
なぜなら、考えるという働きそのものに、
現実を現実として立証する力があることを
知っているからだ。
二元論が、現実の世の向こうに求めるものを、
一元論は、現実の世、そのものの中に求める。
一元論が示すには、私たちは知る(考える+覚える)ことで、
現実の中の真実を捉える。
人と現実の間に紛れ込んで勝手に描く
主観的な像ではなく、だ。
一元論にとって、考えることで到達する世の現実は、
どの人にとっても、同じものだ。
一元論の原理から言うと、
ある人が他の人を仲間だと見てとるのは、
二人のうちに同じ世の内容があるからだ。
この一つきりしかない世には、
たとえば、ライオンという考えがいくつもあるのではなく、
ただ一つの「ライオン」という概念があるだけだ。
誰かが「ライオン」を見て捉える考えは、
他の誰かが「ライオン」を見て捉える考えと同じだ。
ただ、それが別の人間を通して捉えられるだけのことだ。
(だから、違うように見えるだけだ。)
※
濃いなぁ。
どこを取り上げて考えようか。
まず、一元論はすべて、見えるものも見えないものも、
ものというものの中にすべての真実がある、と言う。
覚えと考えを重ねることで、
必要なことはすべて解き明かすことができる、と。
いや、そんなこと言われても、
解き明かせないことだらけですけど…。
と思うんだけど、それは、
まだ自分が成長していないから、という所。
成長するに伴って、ものが自ら語ってくれる言葉を
受け取れるようになる。
…って、どういうこと?
絵を見るとする。
好き嫌いはあるけど、いい悪いはわかんない。
知識があれば、安心して「この絵はココがいいね」とか
知ったかぶりに言える。
自分でどう感じてるかはどこかに置いといても。
その方向は、自分がどこにもいない。
自由になりゆくのは、そういう方向じゃない。
誰に見栄張ってんだか(^^)??
たくさんの絵の中から「この絵が、好き」
ってのは、誰でもあると思う。
理由はわかんないけど、なぜか魅かれる。
よく見ると、いろんなことが伝わって来る。
また10年か20年ほど経って、
またその絵を見る機会に恵まれたとして、
今度は、別にサラッと通り過ぎるかもしれない。
また、強烈な印象で魅きつけられるかもしれない。
その時は、またマジマジと見るんだろうな。
「この絵、昔も好きだったな~」って。
その時に絵が伝えてくることは、
10年前とは違うはずだ。
同じだったらこっちが成長してないってこと。
…っていう見方が、一元論。
二元論は、きっと、その絵についての勉強をするの。
専門家がアレコレ研究した結果を、
ネットとか雑誌で見たりして、
その絵や作家についてのウンチクがいっぱいあるの。
それを元に、絵が素直に見えるならいい。
それが一番いいかもしれない。
自分がどう感じるのか、自分がどう見るのかを、
その知識に邪魔されずに、素直に受け取ること。
知識があることに安心しちゃわないで、
絵そのものと、真摯に向き合うこと。
それが出来た時に、
その絵は知識だけじゃないものを、
その人に解き明かしてくれるはず。
知識だけ、向き合うだけよりも、もっと多くを。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます