
10年くらい一緒に勉強している人がいる。
同じ勉強をしていても、同じ本を読んでいても、
その人は、必ず宇宙の進化、人類の進化を語る。
私は、必ず、自分にとって、どうなのかを語る。
大人の学びは、
現世利益的なことを越えて、
どこまでも自己認識の道だと思っている私には、
そこが、よくわかんないところでした。
でも、自分の外の世界って、
自分を映してるよね。
文句ばっかり言ってる人には、
文句ばっかり言う周りの人が来るし、
イイヒトの周りにはいい人が集まる。
たまに違和感を覚える人がいる場合は、
そこから自分が何かを学ぶために、
その人が遣わされた可能性があって、
というか、可能性はどうでもいいけど、
その人から何かを学ぶ動機にしたらいいわけで。
と考えたら、外の世界の究極の大きさが、
宇宙だよな~と、ふと思ったりした朝。
昨日、頭痛だったせいで(←もう治った)、
ブログを書かずに無のまま寝ちゃったからか、
今朝は妙に壮大な起き方をした(^^)。
よく考えてみると、宇宙の進化が、
たとえば最初は熱で、気体から、固体になっていく
(↑あいまいに書いてるからスルーしてね)
みたいなことがあるとして、
それも、自分の鏡になったりする可能性があるな。
「これやりたい!」っていう熱が自分の中に生まれ、
そこから、いろんな思いを紡いで、考えて、
(ここが、気体のフェーズ)、
形にしていく(固体のフェーズ)という、
進化の過程。
これ、シュタイナーに出会う20年前の私なら、
そして、生き方も尊敬できるあの人じゃなければ、
「宇宙?天使?またアヤシイこと言うて~」って、
まともに聞かなかったと思うんだよね。
若気の至りで、
「自己認識こそ学びの道なのに」とか、
エラソーに批判してた可能性もある。
よくあるけどね。
相手を批判している言葉が、
そっくりそのまま自分に当てはまる
なんてことが。
「あの人は、好き嫌いで人の扱いを変える」
って困っているその人が、その相手のことを
結果的に他と違う扱いにしてしまっている、
なんてことが。
あ、話逸れたかな?
自分を語る私も、宇宙を語るあの人も、
「ホントウはどうなってんの?」に、
別のアプローチから迫ってるんだろうな。
無限大マークの左のマルと右のマル。
目指すは、交差点。

私たちは、
左のマルでもなく、右のマルでもなく、
無限大マークを
まさに今、描いている私として生きられる。
(フォルメン、エラいぞ!)
対立概念を「私たち」に含んで、
一気に乗り越える一元論、大好き!
地球誕生から45億年後、生物の種としての現状の姿が今を語っている。
これを偶然と思えば適応、必然と思えば進化。
奇跡、だと感じることがあります。
なんでわざわざこの自分に・・・
あり得ない不運
ばち当たり