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ミヒャエル・エンデの「誰でもない庭」という本の269ページに、
すごく響く一節があった。
内なる世界が荒れ果てないように、
ちいさな内なる樹木を
ためしに植えてみてはいかがだろう。
たとえば、いい詩を書いてみよう。
これは内なる木を植えることだ。
木を植えるのはリンゴを収穫するためだけではない。
いや、木はそれだけで美しい。
なにかに役立つというだけでなく、
樹木がただ樹木であることがたいせつなのだ。
この前後にもうちょっと言葉があるんだけど、
自分にとって「内なる樹木」って何だろうな。
たぶん、こうやって日記やブログで、
モヤモヤに言葉を与えている作業もそのひとつ。
子どもを育てることや、
夫と仲良くすることもそのひとつ。
最後のフレーズの主語を、
「日記」や「子育て」に言い換えてみる。
日記を書くのは結果のためではなく
それだけで美しい行為、
ただ、書くということがたいせつなのだ。
とか
子どもを愛するのは結果のためではなく、
子どもはそれだけで美しい。
なにかに役立つということではなく、
子どもがただ子どもであることがたいせつなのだ。
とか。
内なる世界は、見えないから、
自分が見なければ見えないまま。
放置しすぎて病むまでは、無視できる。
心のクセは、
意外と周りからは見えてたりもするけど、
本人が見たくなければそこまでのことだ。
だからこそ、あえて意識的に整える。
これは、自分にしかできない作業。
何をしたら整うのか。
庭仕事なのか、日記なのか、おしゃべりなのか…。
1人ひとり、向いたスタイルがありそう。
自分の内なる場所に木を植える。
何なら、それに水をやって育て続ける。
なんてきれいなイメージで語るんだろう。
美しいイメージで語られているそれは、
心の中でも、かなり透明なところ。
まず意識したいのは、誰の心も、
まずは、身近な出来事に対して、
単純に反応してるということ。
誰かが悪口を言ったのが聞こえてきて、
ムッとして、黙り込む、という反射。
ムカついて、怒鳴り返す、という反射。
悲しくなって、その場を立ち去る、という反射。
毎回、同じ反射を繰り返してしまう。
だけど、いったん考えることで、
単なる心の反射を越えて、
黙り込む代わりに、どういう事なのか、聞きに行ったり、
怒鳴り返す代わりに、コレに傷ついた、と伝えたり、
できる可能性はある。
その繰り返しで、
心は整っていくんだろうな。
最後のフレーズ。
なにかに役立つというだけでなく、
樹木がただ樹木であることがたいせつなのだ。
シンプルすぎるラブソングだ!
貴方が貴方である。
比較対象ではない。
と・・・私は思っています。
相互理解はときに優劣???だからこそ反射的卑下
が理解の邪魔になっちまいます。私はそんなです。
自身のない分野と言うか、その筋の専門家には教えてもらうしかないので素直に頭を垂れます。ただ、だからこそ卑下する必要はないんじゃないかなぁ~・・・と。
オキツさんの文章はとっても愉しいです。
これを「愉しい」と感じられる方はきっと、私と同じ部族なんでしょう。部族の仲間が部族のスタイルを大切にしながら暮らせるのが理想ですが、部族は社会の中で少数派だしバラバラに生きているので、まずは保護区を作らねば(^^)。ここが、小さくても安全な保護区のひとつでありますように。
解っているはずなんですが 時折きもちが
騒いでしまうんですね
それらを観察するためにもしかしたら
ことばにするのかもしれない
はなすことも得意でないものの
すこしずつ 書きながら同時進行(翻訳?)
できてきたらいいなとおもいます
樹木意識を内包しつつ
人としての生をまっとうできたら なんて
ゆらぎながらも自分以外のなにかになるという
力みからは抜け出しているようです
まとまりなくすみません。。。
コメントありがとうございます!
ゆらゆら揺らぐことで、軸に気付いたりするから、
わざわざ揺らぐために動いたりもします、私。
また何か言葉にしたら、置いてってくださいね。