数日前に「マサリクとの対話」と題したブログをアップロードさせていただいた。今朝、目覚めたときにふと、あのブログを読んだ人の内、どれだけの方が「マサリクとの対話」を読んでいただけたか、読もうと思われたかと考えてしまった。私の表現のまずさから、敬遠された方のいらっしゃるかもしれないとも思った。読んだ方には反芻(はんすう)していただくために、読もうと思いながらためらいのある方のために、私の拙いマサリクへの想いを綴ってみたい。
マサリクは1850年生まれである。どうでもいいことだが、私よりも100年早く生まれている。スロバキアにほど近いホドニーンというチェコ東部の小さな町で産声をあげた。父親はスロバキア系の農奴の子であり、母親は文化言語的な意味でドイツ系のチェコ人であった。この母親がドイツ系チェコ人でなければ、マサリクが哲学者になることも、大統領になることもなかったであろう。こういうところが微妙な影響をマサリクに与えている。
当時のチェコはハプスブルグ家の支配下に置かれていた。ハプスブルグ家は、当然のことながらドイツ系である。マサリクの母親は言語的にはドイツ系であったために、ダンナ衆(日本で云えば庄屋のようなもの?)の家の奉公人になった。ここでおそらくは父親が経験することのなかったような文化に触れることができたであろう。こういうところが「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」で始まる「学問のススメ」の正確に云えば間違いである点であると思う。
以前「マサリクは数多くの経緯を経て、大統領に選出された」などという表現をしたと思うが、母親は最低限の文化に触れていたために、家庭は窮乏を極めながらもマサリクには、当時の最低限の学校ながら学校に通わせた。チェコのことを少しでもお知りの方なら、当時のチェコでのドイツ語とチェコ語のせめぎあい、チェコのハプスブルグ家からの自治問題等、揺れ動く情勢が理解できると思うが、そんな中でマサリクは最低限の学校ながら、学校に通っていた。
当然、生徒間、生徒と教師間での軋轢(あつれき)も激しい。こうした中で、マサリクはチェコ人(父親がスロバキア系であるため、スロバキアに対する想いもあったであろうが)としての自覚に目覚め、揺れ動く社会の中で自分自身の信念を確立していく。
こうした軋轢の中で、マサリクは紙一重の選択を迫られる人生の岐路に数多く立たされる。そうした岐路に立たされたときには、実に多くの援助者が現れる。そうした岐路でマサリクは、間違った判断はほとんどなかったであろうし、誤った援助者も現れなかった、というよりも誤った援助者は選ばなかったであろう。誤ったとしても、次の時流にむかって正しい道を進んでいったと思われる。
マサリクはスラブ人のみならず、ヨーロッパの生み出した、ヨーロッパのみならず、世界の行く道を示してくれていると思う。これが、カレルに、フスに、パラツキーに引き継がれてきた民族としての誇りの集大成であると私は思う。
願興寺公式サイト
マサリクとの対話
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます