そのうちの一人に先日聞いた話では、イスラム教徒と言うのは"生き方"なのだと言う。その生き方の中心には神の教えがあり、それに従うことが正しい生き方だ。逆にそれに従わないのは悪い生き方となる。
こうして正しいと間違いの境界線がきっちりと有るのはイスラム教に限ったことではない。この映画でもカトリック的な善悪がベースにきっちりとあって、それは何の疑いもないものとして描かれる。悪人は悪事をするのであって、それ以外ではない。そこには理由を詮索する余地など何も無い。
主人公はそれに対して暴力で立ち向かう。それは"仕方のない事だ"として描かれる。
例えば大切な人が悪人に殺されたとする。これに対して暴力で反撃する。これは先にそうした行為をする相手を"悪人"だと決めている事から発した行動であり、やはり正当性を持つように感じられるかも知れない。
戦争のような争いはいつでもこうだ。サダム・フセインは人々を虐げいてる悪人だとすれば、暴力反対のようなきれい事を言ってはいられない。アメリカは軍事力と金で世界を支配しようとしており、世界の多くの人はその奴隷にさせられると考えればアメリカは悪人なのだ。やはりきれい事では済まされない。
何にしてもそうした無邪気な正当化が暴力の動機にもなる。
もちろん、ある"正しい"考えかたを持っているならば、誰しもそこから逃げられはしないだろう。何しろ自分が正しいのだから。そして"あえて"悪魔になる。
この状態を外から見ていて思うのは、その正しさ故に出口が見つからないと言うこと。絶対的な正しさに対しては何物も無力だろう。悪人は単に無邪気に悪人で善人はその時点で単に善良な人間なのである。白と黒の間には線が引かれるのみだ。解決策は白が黒を塗りつぶすのみ。
ただ、暴力は宜しくないと言うところで行ったり来たりするしかない。
このヒーローはその場所にいつでも立っている。
これは十字架をオブジェとしか思わない日本人向には難しい作品だと思う。
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