土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

偉大な文明の継承者  古代日本

2013-07-28 19:34:01 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
今日も不思議な視点から、古代日本の歴史を切り込んで参ります。

前回記事では、
縄文文明は、ムー文明の継承文明ではないか・・・と述べました。

だとすれば、縄文と同じ、継承文明の特徴を持つ、エジプト文明は、アトランティス文明の継承文明ではないか・・・
と言うこともできますね。

これまで述べてきたように、高度な技術や価値観を有する縄文文明ですが、エジプト文明と比較すると、かなり変わったところがございます。

それは、武具の発達した形跡が、全く見られないということです。
1万年を超えると言われる長い期間の間に、
全く武器が進歩しないということは、一体どういうことなのでしょうか?

日本の縄文文明は武具に限らず、他の分野においても全く歴史的に発展した形跡はございませんが、
同じ継承文明であるエジプト文明では、石から青銅へ、そして最終的には、鉄製にまで武具は発展します。
また移動機関も、馬や馬車による戦車など、時代を追うごとに、かなり進化・高度化した形跡が見られます。

建築物や生活物品などのレベルは、年々落ちていくのですが、軍事関係だけは、逆に進歩し発展して行くのがエジプト文明です。
それは、エジプト文明が周囲国との争いを経験した、明らかな証拠ですね。

一方縄文文明では、黒曜石の鏃(やじり)などがみつかりますが、これなどは、猟で使っていただろうと思います。

黒曜石の切れ味は、ナカナカのものではありますが、すぐに割れますので、戦闘には不向きです。
何せ、手で簡単に割れます。(笑)
これでは武器としては使えません。(爆笑)

戦闘があれば、双方が武具の性能を競い合うはずですから、
縄文文明のように、どこの地域でもいつの時代でも、基本的に同じ、黒曜石製の鏃しか出てこない・・・な~んていうのは、どう考えてもおかしいのです。

つまり、縄文文明下の日本というのは、極めて平和な時代が、何千年も続く時代であったはずです。
ここに日本人の、平和に対する原風景があるのではないでしょうか?

よく教科書では、
「縄文人には、国家という概念はなく、平和に暮らしていた。」
「人々は皆平等で、階級などはなかった。」
「その後の日本人が、争いという概念を持ち込んだ。」

みたいな表現をしておりますけど、半分は当たっていると私も思います。
国家という概念は、縄文人には恐らくなかったでしょうね。

私の予想では、縄文文明は”海洋型文明”です。
恐らく、小さな集落が海岸線の周囲に、北海道から九州まで(一説によると沖縄・朝鮮半島まで)点在しているような分布で、縄文の人々は、暮らしていたのではないでしょうか。

その点在する集落を、舟を使って移動する、”行商人”のような人がいて、彼らが当時の日本全国を、縄文ネットワークでつないでいたのではないか・・・と、私は想像いたします。

一つ一つの集落は、主食である栗やドングリを栽培するための林で区切られているので、近くの集落とは、実はあまり接点がなかったのではないか・・・とも、思っております。

接点がないので、お互いの利害が衝突せず、争うことも余りなかったのではないでしょうか?

栗やドングリを計画的に栽培し、それをクッキーなどにして食べる縄文人ですから、それなりの組織は、集落内であったはずです。
縄文集落には、曲がりなりにも、”高度な仕事”がありますからね。

ただ、何度も言いますが、決して、”はじめ人間ぎゃあとるず”のような、生活ではなかったはずですね。(笑)

しかし、他の集落とも、あまり接点を持たずとも、争いは少なく、それなりに楽しく暮らせたのが、縄文文明ではなかったかと、私は思います。

さて、この高度な縄文文明も終わりの時がやって参ります。
ここからが、妄想歴史マニア=土佐のくじらの本領発揮でございます。(笑)

次回から、読者の皆様の度肝を突ら抜く、日本の神話の新たな仮説をご披露いたします。(^^)

                                        (続く)