昨日は一日
だったけど、今日は朝から
です。
梅雨の合間の
っていいですね
大宰府の菖蒲です。
父の病気の内容にまだ触れてませんでした。
たとえば癌とかってことではなくて、でも身体は末期で…。
ある朝、起きたら立てない
という状況で、即 救急車
腰が痛いというからきっとヘルニア(もともとヘルニアがあったので)だと思ったら、足の付け根から血液が流れていなかったという現実だったんです。
身体中にできていた動脈瘤のせいです。動脈硬化ってよく耳にしてましたけど、こんなに怖いものと知っても、もう遅いって話ですね。
母亡きあと五年もの間、一人暮らしだった父に私は(私たちは)再三一緒に暮らそうと説得をしていたにも関わらず、父は自分の家を離れないと聞き入れませんでした。
なので三姉妹でシフトを組んで(ヘルパーさんにも週に二回お願いして)毎日誰かが実家にいる状態を続けていたんです。
私は一番遠くて片道50キロでした。混んでなければ一時間ちょっと。
でも絶対混んでる場所が二か所あるので、一時間半見ていました。
正直、往復三時間を義務のように通うことに最近は疲れ果ててもいたんです。
三姉妹とも仕事と合わせてのシフト、つまり仕事の休みは実家に取られていたという状況だったので、精神的にも疲れていたんですよね。(これも今となっては後悔の局地です
)
それはそれとして――
精神的に余裕のない私たちには、父の健康管理までは気が回っていませんでした。
必要な水分も取れてなかったのでしょう。
五年間で増え続けた全身の動脈瘤は、やがていつ爆発してもおかしくない状態にまで進行し、ぎりぎりまでなんとか動いていた足は、もう動くことはなくなってしまったのでした。
更に、血管に造影剤を使うと腎機能は完全に破壊されると言うものでした…
そういう意味で末期だったということなんです。
まだまだ五分咲きもないですね。
そしてまず避けられない壁は片足を切るということでした。
まず私が受け止めきれませんでした
なので何日も告知もできずにいました。
避けられない内容でありながら、その上に手術したら当然腎機能は破壊されます。
片足無くなって透析――ということになるのでしょう。
そしたら全身の動脈瘤が無くなるのかといえば、それは依然としてそのまま。
そんな父に生きていて欲しいと思うことの方がエゴだと思ったり…(限りなく本音です←ここ、重要だったりして…)
七転八倒の末、父に告知しました。
父は(当然ですが)受け止めきれません。
でも自分の身体のことは自分が一番わかるのでしょう。
切らずに死ねる道がないかと言います。(父の気持ちが伝わりすぎて私は失神しそうでした)
私はそのままを担当の先生に相談したほど困惑していました。
先生は、私たちの気持ちも父の気持ちもわかった上で、切るほかに道はないということでした。
切らなければ見殺しになり、殺人になり、何より父自身が今後痛みに堪えられないということでした。
切らないと言っていても必ず切ってくれと悲鳴をあげる日が来ます、ということでした。
先生のおっしゃることはよくわかります。だってその時でも父は容赦なく襲う痛みと闘っていたのですから。
もうひとつ残酷なことは、頭だけはしっかりしていることでした。
これが神さまのすること?
ベランダの風景です。
父はとてもいい人でした。
頭がよく、管理能力も高く、人格もあり、何より機微のある人だったので、私は父が自慢であり誇りでした。
そんな父がなぜこんな目に――と、そんな思いばかりが頭の中をぐるぐるぐるぐると…
そして手術日が先に決まり、説得のみとなり、残酷なことに、それからの私は父に会うたびに説得をし続けたのでした。
納得しない父にこれでもか、これでもかと、説得を続けたのです。(これが今なお自分の心に鉛となって残っている悔恨です)
父は慟哭の中で手術を受け入れました。
それは私の慟哭でもありました。
神さま、父は正常で冴えた頭で受け止めたよ! どんな気持ち? 楽しいですか? 笑ったらどう?
そしてあとはその日を待つだけでしたが、痛みに苦しむ父は、もう私(たち)が来ることを拒否するようになりました。
顔を見れば、もう帰りなさい、と――。
家族に迷惑をかけるな! 来なくていい! 行きなさい!
そんなことばかり…。
それでもずっとそばにいましたけれど…。
そして明日が手術という夜――。
私に予感がありました。なんか、うまく言えないけれど、天に一筋の光が通ったような、不思議な不思議な感覚でした。
私は着替えを準備して寝ることに。そして夜中に電話――。
父が急変したと――。
準備していたのですぐに出ることができました。
病室には意識はないまま肩で息をしている父の姿がありました。
私は予感してたくせに、でも何が起きているのかわからない状況で、先生に、今日の手術はどうなりますか? などと間の抜けたことを聞いたりして…(やっぱ私でしょう…)
ご親戚の方もすぐ呼んでください!! という言葉にも、今日は手術になっているので、叔父たちもその時間には来ますから、と、どこまでもズレテいる私
そんな時間はありません!!! 早く 早く!!!
先生の声はものすごく遠くから聞こえていました。
私は父に言ってました。
『お父さん、手術が終わって退院したら、今度こそ一緒に暮らそうね』…
何かの機械の数字がどんどんどんどん下がり続けて、80、60、40、やがて0になり――。
静かに終わりが訪れました。
最終的な死因は多臓器不全というものでしょうか…。よくわかりません…。
そんなことはどうでもいいように思ってます。父がようやく苦しみから解放されたことに違いはないのですから。
ただね、苦しんだのに、すごく穏やかな顔で眼を閉じていたのです。
これって老衰じゃないの? と思えるほどに――。また笑っているかのように――。
――と、これが入院から最期までの父の闘いの証です。
そしてカミングアウト――。暗い記事になります
未だに私の心に残って消えないのは、残酷にも父に説得を続けていたことです。
この記憶を消したくて消したくて…。
眼を閉じれば鬼のような形相で父を説得している自分の姿が見えてしまいます。
よくあんな残酷なことが言えたものだと、できたものだと…。
いつの日かこの記憶が消える日が来るのでしょうか…(ね、暗いでしょ~)
みなさま、暗くて退屈な記事を最後まで読んでくださってありがとうございました
父記事はこれで終わりにしますね。全部吐き出したので…
本当にありがとうございます。
今後は父との楽しかった思い出話とかをたまに聴いてくださいね。
楽しい回想シーンなど…。