2. 中世の文学
中世になると大伴家持が万葉集で詠んだ枕詞を訪ねて歌人たちが越中を訪れるようになります。
連歌を代表する漂泊の歌人宗祇もその一人でした。
宗祇
宗祇(1421~1502)は、当代最高の連歌師であった。芭蕉も「-西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶におけるその貫通するものは一つなり。」(『笈の小文』)と記しているが、宗祇は公武の間に尊ばれており、都の文化をあこがれる地方の豪族と、貧しさにあえぎながらも気位の高い都の公家との間を、巧みに立ちまわって文化の伝播に貢献している。
宗祇が越後の上杉氏を訪れたのは九回にも及ぶといわれているが、そのたびごとに越中を通過し、この間には、蓮沼の遊佐の館で数回に及ぶ連句会を開いたと推定されている。
<小矢部市「小矢部市史―市政四十年史編」 平成14年発行>
句集「老葉」
遊佐新右衛門許にて、長月ばかりに千句侍りしに
もる月に 明るや関の となみやま
句集「宇良葉」
遊佐加賀守館にて千句を
戸さしせぬ 世には月見ぬ 里もなし
久かたの 山いかばかり 空の月
蓮沼城
室町時代に小矢部市蓮沼にあった平城。宗祇が句会を開いた蓮沼の遊佐の館とは蓮沼城の事です。
永正から大永(1504~1527)の頃、遊佐新右衛門慶親がその城主で、蓮沼はその城下町として、また越中と加賀を結ぶ交通の要衝地として豪華を極め、戸数も3000軒を数えた。<小矢部市 「ふるさとガイド 小矢部」 昭和59年発行>
しかし、戦国時代に入った天正13年(1585)、前田利家(初代加賀藩主)は豊臣秀吉との直接対決に向け佐々成政(富山城主)が蓮沼城に兵糧を集めたのを危惧し 、夜襲をかけて火を放ち城を城下町もろとも焼き払いました。
これにより蓮沼城は滅び、城下としての機能は翌年利家が築城した今石動城に移行し、北陸道も現在のルートに変更になりました。
やがて江戸時代に入り北陸道は、加賀藩主前田家の参勤交代の官道として賑わいをみせ、旅人、僧侶、商人など様々な人が行かうようになりました。
松尾芭蕉
元禄2年(1689)には、孤高の俳人、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で倶利伽羅峠を越え金沢に向かいました。
この時、源義仲を崇拝していた芭蕉は、義仲が倶利伽羅合戦(寿永2年 1183年)で戦勝を祈願した埴生護国八幡宮に参詣したことが曽良の「随行日記」に記されています。
こちらもご覧下さい→芭蕉が旅した倶利伽羅峠 <奥の細道 ―北陸路―>
各務支考
芭蕉十哲の一人、各務支考は元禄14年(1701)に観音寺に3ヶ月滞在し、町内の俳人を指導しました。
正徳5年(1715)から享保5年(1720)には自ら死んだと言いふらし「阿難話」という追善集を出して姿を隠し、観音寺の中庭に獅子庵を建て滞在しました。
各務支考は獅子庵を拠点に城端・福野・井波まで出掛けて俳筵を開き、これが今石動での俳諧流行の一因となりました。
こちらもご覧下さい→観音寺<獅子庵~各務支考~ ・ 延命地蔵~立山信仰~>
芭蕉が参詣した埴生八幡宮には各務支考も時々参詣したと伝えられ、その時に詠んだ句碑があります。
白鳩の 木末に涼し 神の御意
十返舎一九
滑稽本「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九が文政11年(1828)に著した「越中立山参詣紀行・方言修行金草鞋」には倶利伽羅峠の茶屋で詠んだ句が収められています。
爰元は 柴栗からの 茶屋なれや
はかり込むほど 往来の客
ここは柴栗の名前にちなんだ柴くりからの茶店であるからであろうか、栗をはかるように、たくさんの往来の客で賑わっている
同じく「方言修行金草鞋」に
「高岡より石動まで川舟あり、陸道はたつの岡村などいふを過ぎて、石動の宿なり。この所も賑はしき町にて、ここにはかご多くいたってやすいし。
往来をかごに乗せても宿の名のゆする気遣ひなきそたのもし」
この歌は、高岡から立野、岡村を過ぎると石動の宿という賑やかな町である。ここにはたくさんのかご屋がいるけれど、宿の名はゆするぎであるが客から金銭をゆすることがないのは頼もしいことだという意であろうか。<小矢部市「石碑でつづる ふるさとの山河」 平成11年発行>
歌碑が城山公園にあります。