■パンカップ店主の昭和的こころ 「三角ベースボール」

アラカン・パンカップ店主の昭和的こころの復活記◇昭和の時代・日本の伝統を見直しませんか?!

【息子の名前を決めた時】

2012-03-26 13:26:49 | 三角ベースベール■昭和
【息子の名前を決めた時】昭和63年の12月でした。
 時あたかも昭和天皇ご病床にあられるとき、生まれてくるであろう息子の名前を
夜毎考えていしまた。
 この時期は世の中が「自粛ムード」でテレビの深夜放送もなく、NHKテレビは
皇居の固定画像とご病状を伝えるテロップが放映されているだけでした。

 昭和天皇の病気平癒を願う気持ちを表したいものだと分厚い国語辞典を3冊
広げていてふと目にとまったのが ゆき 【悠紀】という言葉
でした。始めてみる日本語でしたが、解説には『大嘗祭(だいじょうさい)のとき、
神事に用いる新穀を奉るため卜定(ぼくじょう・・・吉凶を占い事を定めること)
によって選ばれた第一の国郡。悠紀の国とありました。
 読み方と漢字を一字替えて「悠己(ゆうき)」と名付けました。生まれ年は辰年、
私も私の母も辰年ということで、妻方の親戚のある方からは「辰年の子を生め」と
いわれていたそうです。コレも凄いけど、無事神様から男の子を授かったことを心
より感謝しています。 

 
 

【パンカップ店主の昭和史】立川談志の色紙が見つかったよと知り合いがもってきた。

2011-12-08 17:33:03 | 三角ベースベール■昭和
【パンカップ店主の昭和史】

先日亡くなった落語家が1971年に参議院選挙候補者として寄居町に遊説に来た。忍屋美髪店(通称おしどこ)で頭を洗ったと聞いた。当時21歳(私は大学1年・寄居から早稲田まで通っていた)のかおちゃんに、先日何か「足あと」が残っていないのと聞いたら、当時店内にかかっていたのれんと色紙にサインをしてくれたそうだ。のれんはすでに無いそうだが、「大谷さん、色紙が見つかったのよ!」と夕方店に持参して来て、見せてくれた。その時、立川談志はたい焼きの「あきちゃん」でたい焼きも買って食べたらしい。

  


武町(寄居町)の巨匠 安井曽太郎と寄居小唄(佐々紅華・金子貳次) 

2011-11-09 00:11:14 | 三角ベースベール■昭和
安井曽太郎と寄居小唄(佐々紅華・金子貳次)


1932(昭和7)年、玉淀の入り口の左側に「祇園小唄」「君恋し」「唐人お吉」などを発表した作曲家の佐々紅華が地所を求めて建築をはじめた。このとき出来た歌が「寄居小唄」である。作詞は当時秩父線寄居駅に勤める若き文学青年 金子 虹(貳次)(たかつぐ)であった。彼は武町の鳥羽家に婿に入ったが昭和39年に54歳で亡くなった。夫人とよさんは平成18年に94歳で亡くなったが、お元気な時に古い冊子をワープロで打ちなおすよう頼まれた。手書きの文で、継ぎはぎをして書き直された個所もある。子供の頃よく聴いていた「寄居小唄」であった。昭和20年頃東京より疎開していた画家 安井曾太郎に鳥羽家自慢の手打ちうどんをご馳走するといったら、紋付はかま姿で現れたとか。巨匠らしい振る舞いに思わず笑いがこみ上げてきた。ちなみに金子虹の実家は俳人 金子兜太の本家と聞いた。  

停車場の 黒き鉄輪に 夏草 大谷州弘


  
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昭和の寄居風景「寄居小唄」
金子 虹 作詞 / 佐々紅華 作曲 / 寄居町商工会編



色はうす紅 玉淀さくら 霞む日ごとの 水かがみ
まわる日傘に ほろほろと さても愛しい 花が散る

桑の雫に 白粉といて 夢のよにひく 眉の墨
紺の蛇の目が ちらほらと 水の玉淀 夕時雨

思ひかけはし よりゐに桟けて 君と逢瀬が ままならば
川を隔てた 西ひがし 泣いて苦労は せぬものを

城は鉢形 御城下町に 昔 鳴らした 意地もある
思いきるまい 心なら せめて二度咲け 山つつじ

君が来ぬ日は 鐘撞堂の 峯の朝ぎり 雨となる
恋のあま沼 瀬の水に ざんざ降れ降れ なみだ雨

小鮎躍るか 城下あらし 水が散る散る 銀の珠
よりゐ舞妓が ふりそでに サッと棹きる 鮎漁船

河鹿なけなけ 月夜の岸を 波の砕ける 岩陰に
白い素足が ほんのりと 露の笹原 とぶ蛍

朝も早よから 工場の煙は 繭が生糸に なるけむり
花の都の はで好み 一つ語ろか よりゐ絹

吹くよ秋風 雀の宮の 松の梢の 夕ぐれは 
チロロ チロロと なく虫に むせぶ川瀬も 身にしみる

高根山裾 紅葉の寺は 藤田、北條の 墓どころ
金襴どんすの 絵巻物 昔偲べと 松のかぜ

茸は松茸 羅漢寺山の 秋のみのりの ほどのよさ
鳥も帰るか 山越えて 風が泣くよな 鐘の音

君は一すじ 頼みの綱よ 妾しゃ 吊り橋 正喜橋
そぞろ歩きの 象ヶ鼻 月が二人の 縁むすび

よりゐ良いとこ 秩父の山が 雪の化粧(けはい)の しなのよさ
娘まけるな 紅つけて しゃんとすませよ ミス・ヨリヰ

(広報武町2011年7月3日発行より・文責大谷州弘)

合切袋(がっさいぶくろ)?◆マイ・ブーム「印伝屋」の印伝小物◆で日本を知る

2010-09-05 19:29:01 | 三角ベースベール■昭和
合切袋(がっさいぶくろ)ってなに?

最近あまり聞き慣れない言葉なので「kotobank」 合切袋とは?で調べてみたら・・・、
財布・ちり紙などこまごました携帯品を入れる手提げ袋。多く織物製で、口ひもでくくる。籠信玄(かごしんげん)・千代田袋など。明治時代に流行・・・とあった。なるほど、ちょっと出かけるとき、目に付いた携帯品を適当にあれもこれもと、逆に思いついたものだけをさっと詰め込んで出かける大胆にして、且つ大雑把な人間にはもってこいの「袋」のようです。



【イメージ】はパンカップ店主愛用の底マチのない合切袋(黒地に黒漆)です。
袋の口の端に紐があるのではなく、口にコキをつけて紐を通してあるので、口のギリギリまで物が入ります。週刊誌をひと周り小さくした大きさですが、薄く丸められるので旅行のときのポーチや手提げ代わりにも使え、紐を絞ると筒状になるので物に多少厚みがあっても入り、何かと重宝します。裏地はナイロン、紐は正絹です。サイズ:26.5×19cm

【柄のいわれ】
亀甲(きっこう)
平安時代から鎌倉時代に流行した柄です。正六角形の幾何学模様で亀の甲羅をかたどって作られたものではなく、その形が亀の甲羅の様に見えたことからその名が付けられました。伝統的な吉祥模様(おめでたい柄という意味)とされていて、亀甲の中に花菱、菊、鶴などを配したものも多く見られます。

お盆の習わし━なぜか刻み昆布にそうめん━盆棚(精霊棚)

2010-08-11 20:23:42 | 三角ベースベール■昭和
世の中、世間一般はすでに「お盆休み」に突入しているようです。寄居町の近くの関越自動車道花園インター付近もそろそろ混雑し始めることでしょう。

さて、何故に「お盆休み」に大方の方が「ふるさと」を目指していわゆる「帰省」をするのでしょう。ふるさとがあるから「帰省ラッシュ」、先祖のお墓があるから「お墓参りラッシュ?」、「実家の義姉さんに迷惑がかかるから」と遠慮を盾に「せっかくの休みだから・・・レジャー優先ラッシュ?」いやいや、単なる「帰巣本能」か?

高速道路がどんなに渋滞していても「帰るのだ!」とにもかくにも、ふるさとに帰れば迎え盆、送り盆がさまざまな形で地域の文化として残っている。うれしいことです。たとえば盆棚です。日本には「仏壇」というお墓とは別のスペースがあるので、昨今の住宅事情や伝統行事の簡略化などの風潮で仏壇を盆棚にしつらえるお宅も結構多いのも事実です。私どもの家も親父の時代からそうでした。

家中総出でというか、主に男性陣が打ち揃って、盆棚を組み立て始めます。むかしの大工さんや建具やさんが作ったものは、ほとんどホゾが切ってある縦棒横棒を「符丁」通りにはめ込み(釘は使っていない)茅(ちがや)でよった縄でしっかりと絞めで組む。棚には「盆ござ」を敷いたりマコモで編んだ筵を敷いてお供物を置く。また縄には地域によって差がありますが、七夕紙、杉の葉や驚くなかれそうめんを束のまんまつるしたりする地域もある。またお供えには、イメージの刻み昆布を甘辛く煮たものやさつま揚げ油揚げと合わせて調理したものあげる。

※一般的なつくりかたは、
マコモのゴザを敷いた台の四隅に青竹を立て、その上部に縄を張って結界とします。縄にはホウズキ、アワ、キキョウ、山ユリ、盆花(みそはぎ)などを吊るします。マコモの上には位牌、ローソク立て、香炉、花立て、お供え物などを置きます。

※位牌の前には、なすやきゅうりで作った牛や馬を供えます。これは先祖の霊が「きゅうりの馬」に乗って一刻も早くこの世に帰り、「なすの牛」に乗ってゆっくりあの世に戻って行くようにとの願いを込めたものといわれています。そのほか、香・花・灯明・浄水・盛物・果物・野菜、それに、そうめん・餅・団子・故人の好きだった食べ物などを供えます。また、洗った米に、なす・きゅうりなどを賽(さい)の目に刻んだものを混ぜて、蓮の葉の上に盛り付けた、水の子と呼ばれるものも供えます。花も季節のものを生けて、欠かさないようにします。
 
※仏壇の前に精霊棚(しょうりょうだな)を設け、初物の農作物でつくったお供物(きゅうり・なす)を飾り、供養膳に精進料理を盛り、白玉・だんご・果物・故人の好物なども供えます。
なお、このお供物は墓前にも供えるので用意します。
また、お盆の間は精霊に自分の家を教えるために、仏壇のそばとか軒先に新盆堤灯を飾るものとされています。
盆棚を設けるスペースがない場合は、仏壇で精霊棚を兼ねます。仏壇の上部にホウズキを飾り、手前にマコモのゴザを敷き供物類を供えます。

■精霊馬(しょうりょううま)=キュウリとナス■

※キュウリとナスビに割り箸を刺して馬と牛に見立てたもの。
 【キュウリ】は【馬】の例えです。
  お盆のときに、少しでも早く迎えられるようにとの願いを表現しています。
 【ナス】は【牛】を表現しています。
  お盆が終わって、帰るときはのんびりと。
 一説には、「精霊がキュウリの馬に乗り、牛には荷物を乗せて楽に帰れるように」
 という意味が込められているとも言われています。

【パンカップ店主的私見◆なぜか刻み昆布にそうめん━盆棚(精霊棚)】
お盆は精霊祭りであり、正月とお盆にご先祖様とともに世の平安と家族やその家の平安を祈るお祭りとも考えられています。仏教の行事だからといってすべてがしめやかなものとは限らないようです。家族の長寿を祈る習わしとして「細く長く」でそうめんや刻み昆布がお供え物としてあげられたようです。また、特に昆布は「子生婦」とあてられ(当て字)、一家の繁栄を願ったものと思われます。


「鉄のフライパン」が教えてくれるもの

2010-07-30 19:34:36 | 三角ベースベール■昭和
話が飛んでしまいましたが・・・、
うちの子たち・・・2人とも生まれたときから極度のアトピー性皮膚炎で上さんは今でも食事に結構気を使っています。いわゆるレトルト食品や冷凍食品は素材系以外はほとんど買わないし使っていません。当然おかずも基本的に「手作り」ということですよね。

アトピーと食事のことですが、こどもたちが生まれた今から20数年ほど前には自然食とか無添加食品とかは、あるにはありましたが、なかなか手近になくて、うわさを聞いて遠方まで自動車を走らせて買いに行ったことなどもありましたが、当時の自然食品は、はっきり言って「まずい」「おいしくなかった」。この頃は群馬大学がアトピー性皮膚炎について、熱心であったようで、関越を使って大学の周りにある自然食品のお店に通っていました。大豆を使わないしょうゆ、味噌。バーターや牛乳を使っていないパンなど、今考えると代用食といってもいいほどの代物でした。

※そんなこともあって、また非常時のことも考えて・・・、
※今度のお店(2000年11月28日オープン)には、生鮮食品を除いた一般食品の【自然食コーナー】も設けました。
※野菜などは近所の農園から毎日売りに来てくれるのでとりあえず心配はないようです。
今の自然食品、無添加食品は、「おいしいですよね」。賞味期限は短いけど・・・。 パンカップ店主敬白
◆ところで子育てと料理。
  インスタント時代への反省・・・

モノがあふれる豊かな時代に育った人達が母親となり、子育てに時間と手間を取られ、いらいらしているようです。テレビや雑誌のコマーシャルなどで、手を抜くこと、便利なこと、すべてをインスタントにすることが合理的であり、良いことだと吹き込まれて、ゆっくりと時間と手間をかけなければいけない育児に対して、気づかぬうちに拒否反応を起こしているのかもしれません。先日も上さんとの昼食タイムのことを「つぶやき」ましたが、今の子供の中には永久歯の生えてこない子がいるそうです。原因は育児拒否、DVなどにより虫歯があっても歯医者さんに行けない子供。やがて乳歯が抜けても大人の歯が生えてこないほどの状況に陥ってしまうのだそうです。こんなつぶやきをしましたら、結構歯医者さんからの「フォロー」がありました。

「おふくろの味」がなつかしいのは、母親が自分のために手間ひまかけ、心をこめて作ってくれた慈愛へのなつかしさなのです。

食欲がないとき、風邪をひいて熱を出したとき、なんとか子供が元気になってほしいと、おかゆを煮炊きして食べさせてくれたり、塩味のきいた小さなおにぎり。母の味ですよね。

豊かになりすぎ、便利になりすぎたために失ってしまったほんとうの愛。人間性あふれた心の豊かな愛の姿を、この辺で取り戻そうではありませんか。


その大きな愛に感謝をささげます。
◆ところで超貧時代でも母は強かった。
「粗食のすすめ」という本にこんなことが書いてあったか?
「母は強し。」昔は栄養状態も悪かったのに、一家に最低でも4人、多い家では8人兄弟なんていう家庭はざらであった。戦後になって「栄養学」とかを学校で教えられるようになったが、どこかが間違っていたような気がする。

日本にも戦後「産児制限」というのがあったようだ。
これが今の少子高齢時代に結びついているというのだから「自然」がいいのでしょうかね。
◆ところで鉄欠乏時代がやってきた。
(1990.5.7朝日新聞夕刊より)
イロリの鉄なべを囲んだ昔の食事では、貧しいながらも鉄分欠乏貧血は少なかった。なべから鉄が溶け、自然に食べていた。今日の鉄欠乏時代を予測したかのように家政学の後藤たえさんは30年以上も前に、次のようなデータを発表されている。敬意を表したい。

食品原料の中の鉄の量と調理後の鉄量とを比べると◆鉄のかまで炊いたご飯は2倍、◆鉄なべで煮たもの2.5倍、◆鉄のフライパンで油炒めしたものは3.1倍。
なべから出た二価の鉄は、レバーにあるヘム鉄についで腸からの吸収がいい。二価鉄が酸化されて三価鉄になると、吸収もよくない。ビタミンCが貧血によいのは、鉄の酸化を防ぐ効果による。

それにしても、なべから出る鉄はごくわずか。本当にこのような効果があるのだろうか。
疑問はごもっともだが、現在は、食品や飲み水の環境がますます鉄欠乏の方向に進んでいる。鉄なべからの鉄も「食品」の一つとしてみたほうがいいのだ。

白米の鉄は、玄米の半分である。加工食品に鉄分が多いと色や味が悪くなるので、食品添加物の鉄封鎖材をつかう。これは鉄の吸収を悪くする。こんなこともあった。説明文の一部で「顔も白くなる」として怪しげに売り込んでいた食品を調べたら、鉄の吸収を抑える天然物質が多量に含まれていた。なるほど、貧血になれば、顔も白くなろう。

台所の近代化とともに、鉄欠乏時代がやってきた。物置に追放した本物の鉄なべ一つ、フライパンを一つ呼び戻したい。(元九州大学教授・食品研究者 稲神 馨)
◆鉄のフライパンが貧血を防ぎます。

子育て支援もほどほどに。むしろ町にほしいのは奨学金制度

2010-07-30 14:16:47 | 三角ベースベール■昭和
給食費の無料化や子供医療費の無料化などが、政策のテーマによく取り上げられるが、日本人の「誇り」「伝統文化」を失いかねない政策であることに少しは気配りをしてほしい。

特に「給食費の無料化」などは軽々に言うべきものではないと思います。
先日の参院選で大敗を帰した民主党のマニフェストにあるような大盤振る舞いが、これからの寄居町と重ね合わせてみても、いかに「無知」な政策であるか。このときにも少しマスコミが取り上げていましたが、「給食費」を払わない親に免罪符を与えるようなものではないでしょうか。給食、給食費を払う親、これは長い給食の歴史の中で振り返り見れば、「親の慈愛」であり、子供に感謝を学ばせる絶好の教育手段なのです。まさに現代の「食育」そのものなのです。

 「食育」とは。
…石塚左玄(いしづか さげん)が明治時代に提唱。
 「体育智育才育は即ち食育なり」
 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり(食本主義)」
 心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄 にするには食物を清浄にすることである。

「食育」としての給食を考えた場合、具体的には
  ◆給食のレベルを上げなくてはならない。
  ◇そのためには優秀な「栄養士」さんを雇わなくてはならない。
  ◆地産地消・身土不二の考え方をひろく教育現場、給食施設、食材の生産現場、生産者に広げていかなくてはならないという大変手間ひまのかかる事業だと思います。 
  ・・・フードマイルの抑制減少策。
  ・・・【身土不二】居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、
           副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。

  などの施策を総合的に展開していかなくてはならないのです。
  「給食は教育」の一環です。参考書はありません。
  地域にあった給食を栄養士さんとともに考えていかなくてはならない大事業なのです。


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昭和30年代から始まった「高度成長」。全国津々浦々で小学校の学校給食が始まりました。
しかし、高度成長期とはいえ、まだまだ、都会と地方の貧富の差は激しく、給食費の払えない子、修学旅行をあきらめる子も多くいたのも事実です。親は子供のために働き、中学の義務教育が終われば地方から多くの少年少女が「集団就職」で都会に出て行った時代でもありました。「ああ、上野駅」の時代です。店主が店を継いでいた昭和50年代の東京の問屋街にはそうした地方から出てきた苦労人のかたがたがたくさんいて、商品のことや商いのことをいろいろと教えていただいたことが今でも忘れない思い出として残っています。

書きかけです。


学校給食やお弁当の大切さを身にしみています。

2010-07-29 20:25:51 | 三角ベースベール■昭和
人間の生活の中で、食生活もまた大切な部分を占めますが時々「おもいやり」に欠けた料理にお目にかかります。主婦の皆さんが(時にはご主人が)家族のためにつくる家庭料理、それは「家族がすべて基本」であるからこそ家族に対する気持ちを大切にし思いやりをこめてつくりたいものですよね。

◆ところで高校生のころ息子がよく言っていました。
「おれの弁当のおかずを見て、お前んちって金持ち?ていわれるんだよ。」
「貧乏だよ!!」って返事をするみたいですけど。
すべて手作りのお弁当がなぜか周囲のみんなにそんなことを言わせるらしいのです。
妻曰く「そういえば、ここ20数年スーパーの冷凍食品売場に足を運んだことがなかったわね。」
「お前も冷凍食品を食べてみたい?!」
「別に━ッ。お母さんの手作りが最高さ。・・・、ところで今日は学食も食べてもいいかな」
「うん、いいよ。」

【学食】
学食「も」というのが、親父としてもよく分かる。わが子もオヤジと同じ高校に行っていたが、高校生ともなると昼は眠くてよくお腹が減る。親が持たせてくれる手弁当は3時間目には完食、ひどい時には授業中教科書の影で早弁(はやべん)をしていた。でもこれは教師にすぐ見つかった。当然。お弁当独特の「におい」がするのだ。4時間目がおわると学食に直行。3時間目後の休み時間に学食に直行して、天ぷらうどんをたいらげて、4時限目に間に合うようにするのも「楽しみ」だった。
が、たまに授業におくれて廊下に数人並ばされて「愛の」往復ピンタをいただいたこともある。学生時代に少ない小遣いでいただいたものはみんなおいしく思い出深いのが不思議でたまらない。

【ある女子高の学食】
部活動である女子高に行った時の思い出です。
上記の様子は、男子校でもそして憧れの女子高でも変わらないようでした。ただ、学食に駆け込むときなぜか「キャーっ」とかという悲鳴に似た声が一緒に聞こえたような気がする。渡り廊下から津波のように押し寄せる足音と意味不明の喚声。かすかな記憶だが、それはそれはすざましいものでした。

続く・・・。


■荒物屋さんで売れてる物干しハンガー〈復刻版〉

2010-06-05 12:22:23 | 三角ベースベール■昭和

「さあ、洗濯するぞーっ」と気合が入るほど、関東平野のすみっこは珍しくいいお天気が続きましたね。そこでこんな商品を紹介したくなりました。

10年ほど前から、死語になりつつある「荒物屋」さん・・・当店も元荒物屋です・・・で昔から売れている物干しハンガー〈復刻版〉】です。わが家でもコレのジャンボタイプを2個使っています。『コレじゃないと、洗濯をする気になれない』と上さんは言います。

たかが「物干しハンガー」だけど、日本製のすごいところはピンチに組み込まれた「バネ」でしょうか。あえてメーカーさんが〈復刻版〉というのも分かります。最近は物干しハンガーも中国製や東南アジア製に押されてスーパーや量販店の店頭からこうした昔からのスチール製のピンチの付いたハンガーが消えてしまっています。パンカップの上さんも、あえてこのハンガーを使っています。とにかくワクも丈夫で、ピンチも頑固一徹変わりなし。こんな時代、身の回りの雑貨で変わらないでいてほしいものかいっぱいあります。なぜか昭和のニオイのするものばかりです。


■荒物屋さんで売れてる物干しハンガー
■ニシダ・角ハンガー・ファミリーD スチール製ピンチ20個付き

・サイズ:約35×62cm・重量580g
・ピンチがスチール製なので、日光や雨などで劣化せず、割れることがありません。
・強力ピンチでジーンズもしっかりはさめます。
・ピンチの先端にP.P製のクッションが付いています。
■原産国 日本
■賢い主婦の皆様、ご高齢の主婦の皆様も納得の商品
 「プラスチック製のピンチのハンガーじゃダメなのよね。」

ひとまわり大きい・ジャンボ・デラックス・スチール製ピンチ30個付き【復刻版】もございます。

お求めは 実店舗 リビングショップおおたに 寄居・埼玉
パンカップ楽天市場店



【9の付く日は割引デー】実店舗限定◆リビングショップおおたに 寄居・埼玉
所在地 埼玉県大里郡寄居町寄居999-2
電話 048-581-0275  
FAX 048-581-3531  
フリーアクセス(地域限定) 0120-21-0275
通常営業日はパパママ応援ショップ優待OK


路地の多い町 ─ 寄居 ─ 鍛冶屋だったのか

2010-05-30 17:27:37 | 三角ベースベール■昭和

秩父郡小鹿野町の小鹿野路地STが今度の日曜日*6/6に開催されます。
【ろじスタSTは、路地をテーマにしたワークショップ事業。】

昨日の路地の多い町 ─ 寄居 ─ 江戸時代の人の「落し物」は、たくさんの方にご購読いただいたようでうれしく思います。ありがとうございました。

落し物の「寛永通宝」はまだいいのです。アチコチ掘ると(ここ掘れワンワンじゃなくて)コークスの屑がやたらと出てくるものですから、昔この地で商いをしていた方は「鍛冶屋」さんじゃないのかなぁなんて想像してしまうのです。江戸時代の商都「寄居」・・・ふくらむなあ。

話しはちょっと下って、初代のおじいさんが「武蔵屋」という荒物店からのれん割けしていただいて、大正十四年(1925年)初めて店を持ったのが寄居町寄居974番地、角屋という元うどん屋さんの前。戦後の昭和二十二年に、現在地にあった大正時代の土地・建物を買い受けて「大谷荒物店」が今に続いている。

勝手に想像しています。
すでに20年ほど前の話ですが、男衾のある土建屋さんに配達に行った時のことです。その家のおじいちゃんが「オレも若い頃はなぁ、寄居の町で馬車を牽いていたよ。大谷さんちにも荷物をずいぶん運んだなあ。」・・・と。土間を見渡せばカマドがありました。「まだカマドなんだ」と思わず言葉を飲み込みましたが、この家は、煮炊きはこのかまどでやっていたようです(20年ほど前の話しです・・・念のため)。

馬といえば、【蹄鉄】にその他の馬具も必要でした。蹄鉄付は鍛冶屋さんの仕事。寄居町には何軒もの鍛冶屋さんがあったようです。今でも茅町の杉本鉄工さんにはコークス(?)にフイゴの付いた「床」と呼ばれる鍛冶道具が残っています。いや、たまには火が入って使っているかもしれません。


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