チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「イョ#4/景と王のアリオーゾ(アリオーゾ)」

2005年08月04日 17時34分57秒 | イヨランタはまだスィスィ16だから
(王のアリオーゾ)
バス歌手が演じるルネ王による42小節のアリオーゾである。
→アンダーンテ(2♪=66)、(C)、3♭。
「○・タァッ・タァッ・タァッ、タァッ・タァッ・タァッ・タァッ」
という弦4部の律動による「運命」のハ短の主和音と、
バストロ1本*コンバスによる主音全音符に導かれて、
「ア・ピエーナ・ヴォーチェ・モルト・エスプレッスィーヴォ
(とっても表情豊かな声に満ちみちてね)」と指定された王が、
♪ラ |ラーー<シ・<ド <ミ <ラ  <シ  |
 ガス ポーチ・モィ、イェースリ・グリェーシェン
(主よ     我が としても  何かに関して罪がある  

<ドーーー・ーーー>シ|>ラ  >ミ  >ド>ラ・<ファーー>ミ
・ヤーーーーーーー、ザー・シトー・ストラーダーィト・アーーン ゲル
 私が       そのために  苛まれねばならぬ 天使が

|ミー>ラー・○○○♪
 チー スティィ?
 清廉な
(拙大意)我が主よ、たとえ私になんらかの咎があるにせよ、そのために
     清らかな天使(イョラーンタ)が罪をかぶって苦しまねばならぬのか?
そのあとの節と歌詞は省略するが、簡単に拙大意をまとめれば、
♪王位もいらなきゃ領地もいらぬ。わたしゃもすこし娘の視力が欲しい!♪
である。この拙大意になにか瑕疵があっても、露語もできない私ゆえご容赦願いたいが、
「玉座カルテット」の二葉しげる(百合子師匠の弟子)のギャグとほぼ同じ内容である。
「ロシア正教の唯一神であるキリスト」にすがる歌である。プロヴァンスの物語なのに、
カトリック臭はせず、ロシア正教の「黒っぽい」においがプンプン鼻をつくのである。
ところで、アリオーゾの冒頭、
♪ラーー<シ・<ド<ミ<ラ<シ|<ドーーー・ーーー>シ……♪
は、なぜか記憶野の灰色の脳細胞が、
♪ラン<シ<ドン<ミ|<ラーーー|ーーー<ド|>シラ……♪
と刺激されて、
♪ラ<シ<ド<ミ・<ラーーー|ーー<シ<ド・>シーーシ|シ……♪
八王子の呉服屋に成人式の羽織袴をあつらえた頃を思い出して、
「泣きながらちぎった写真」を粗い指の掌でジグソーパズルにしたりしてみた
「あの日にかえりたい」ような気持ちにさせられる節である。が、
それはともかくも、コルアン*1クラがオクターヴ・ユニゾンでオッブリガる、
♪ラン>ソ>ファー>ミン>レ|>ド○♪
の音色も、晩年のチャ経の「凄み」を際立たせてるのである。
プチ中部的ピウ・モッソ(2♪=88)箇所の副節、
♪ミ|<ファーーファ・>レレ>シ<レ|<ミーーー・ー○○♪
を経て、主節の♪ラーー<シ・<ド<ミ<ラ<シ|<ド……♪
が戻ってきたとき、高中弦がその節をカノる。が、それは
♪ラ|ラーー<シ・<ド<『ファ』<ラ<シ|<ドーーー♪
となってるのである。バスが下降し、
「アド・リビトゥム、ピウ・トースト・ラールゴ
(かなり遅いラールゴで随意に)」と指定された部分が歌われる。
♪○ラ<ド<ミ・<ラ<ド>ラ>ミ|>ド>ラ>ファ>ミ・
○ミ<ファン>ミ|>【レン】<ファ>ミ(フェルマータ)○・
<ラー>♯ソ○|<ド>シ<レ<ファ・ミーーー|
ーーーー・ーーーー(フェルマータ)|>ラー♪
【】は「ハイC」ならぬ「ロウF」というほどの低さでもないのである。が、
これや、その2度上のG程度でもきちんと出せるバス歌手は意外といないのである。
それはさておき、この箇所の歌詞の内容は、「主」に対して、
「御前で地べたに額を擦りつけて願い奉る所存にございます」
という本格的な土下座の、かなりなマゾキスティク発言である。
これに続く結尾4小節(テンポ・プリーモ)では、
3フルート*高中弦の主節をカノる1ペット*テナトロの
♪ラ|ラーー<シ・<ド<『ファ』<ラ<シ|<ドーーー♪
が「効いて」るのであるが、さらに、「スフォルツァンド」をかけられた
コルアン*2クラ*2ファゴのユニゾンによる
♪ファーー>ミ|ミーーー・ーーーー(フェルマータ/ディミヌエンド)♪
が「胸の奥にしみいる」のである。娘を思う父の心なのであるが、
イブン=ハキアが大バッハやヘンデルを毒牙にかけたジョン・テイラー
(服の仕立屋に眼科手術はどだい無理だそうである)のような輩でなく、
墓穴を堀り洋服郎にならずにすんでよかったのである。ちなみに、
あのような輩は、カネさえ入れば自分のせいでカモの人命が失われても、
次世紀の念にかられることもないようである。それはどうでも、
娘の視力を、と願う「プロヴァンス」の王の名「ルネ」は、
ルネサンスの「ルネ」同様、「再生」を意味する名である。
「再生」とはすなわち「イエスの『復活』」である。ときに、
ルネセンスで思い出したが、旧暦なのでナンセンスではあるが、
新渡戸稲造先生は文久2年の8月3日生まれ、昨日がお誕生日であったようである。
拙者、お札マニアではないが、それでも、旧5千円札を1枚だけでも
とっとこうと思ってたのでござるが、そのうちに新札に切り替わってしまい、
手元に1枚もなくなってしまったのでござる。そこで、旧5千円札を手に入れる
チャンスをうかがってるのでござるが、そもそも、
5千円札というものは1万円札を出したときのツリでしか巡ってこないのでござる。
5千円札自体の不便さに財布には1枚も入れてないのでござる。が、昨日、
新5千円札をツリでもらったので、それも1枚とっとこうと思ったのでござるが、
ついうっかり、使ってしまったのでござる。昨日8月3日の格言:
 新渡戸追う者は一葉も得ず。
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