チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ジャック・ルイ・ダヴィッド作『マラーの死』」

2005年03月31日 13時17分51秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

ダヴィッド マラーの死


4月9日から横浜美術館で開催される「ルーヴル美術館展」に、
「マラーの死」が出展されるそうである。この展覧会、
「北野武の『マラーの死』はもう一枚あった」
という副題が附いてるかどうかは知らないが、
ホンモノはブリュッセル王立美術館のほうである。
「ルーヴル美術館展」に来るのは、「お墨附き」の「複製画」である。
ジャック・ルイ・ダヴィドは私が惹かれる画家のひとりである。
「マラーの死」の翌年に描かれた「自画像」(ルーヴル蔵)を見たとき、
そのクールさに魅せられた。ダヴィドは少年の頃に父親が決闘で殺されたために、
親戚のおっちゃんのもとで育てられたのだが、それが画家になるきっかけである。
そのおっちゃんというのが、大画家フランスワ・ブーシェだったからである。
ちなみに、マラー殺しの下手人は、対外戦争反対がほとんどである他派に
対抗するためには戦争大賛成、もっとやりたまえ、という持論度派の
マリー・アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン・短急命の短スケ嬢、
24歳。ジュゲムやピカソほどではないが、長名である。
落ちぶれたとはいえ、ノルマンディー貴族だからしかたない。
しかも、ピエール・コルネイユの子孫である。が、暗殺はシソンじなかった。
果物ナイフで「クールに」ひと突き。プロ並みのあざやかな仕業である。
たいそうな美人と伝えられてるが、裁判中にどうしてもとだだをこねて描かせた、
という肖像を見るかぎりでは、???である。
なに言うとんのや、怒コルデーしかし! である。わざわざ、
ヴェルサイユにあるランビネ(「lambinet」)美術館まで足を運んで
その肖像画を見たが、「時間の無駄使い」であった。それにしても、
一度は「皮膚病」のマラーのシモーヌの世話をしてたとかしてなかったとかいわれる
内縁の女房に面会を拒絶されながら、夕刻に、またしてもしつこくおしかけ、
「皮膚病対処」のために朝から湯に漬かってた医者あがりの山岳派の親分
ジャン・ピエール・マラー・庄助に、
「ジロンド派4999名の名簿から、貴殿が率いるジャコバン最左派に対して
陰謀を企んでるメンバーの個人情報をCDRに焼いてきました」
と偽ってさらに面会を求め、「もういいかい?」と訊ねると、
「マ~ラ~~だよ」ではなく「もういいよ」と招き入れられた由。
「マドムワゼル。貴女は奴らを裏切ることに後ろめたさはないのか?」
「ノン、ムッシュー。母国の正義と平和のためでございます。流出した一人ひとりには、
それぞれ500円相当の全国共通商品券でも送っとけば済むことです」
「して、その首謀者は?」
シャルロット嬢はマラーにディスクを渡す。マラーはバスタブ用ノート・パソコンに
挿入し、ディスクを開く。すると、画面にはコルデー嬢の
「あっかんべー」ヅラが映し出された。全身マラー出し無防備のジャン・ポール。
足利義輝のように塚原ト伝に剣を習ってなかったので鍋蓋はおろか、
湯桶さえ傍らに置いてなかったのである。刺したとき、シャルロット嬢は、
「売国奴! いますぐ息絶えるな。苦しみぬいて、『朝死ネ』!」
と叫んだとかさけばなかったとか。
殺害後もその場から離れず、すぐに逮捕、裁判、死刑判決。
コヅカッパラまでの「行進」どきには沿道や広場は、
「暗殺の天使」と命名された「美人殺人鬼」を一目見ようという野次馬で
ごったがしえしたとか。処刑時には上半身素っ裸にひんむかれるのである。
もち、公開処刑である。手はずどおり、サンソン家4代め
シャルル・アンリ・アサエモンの執行命令により、
シャルロット嬢は首と胴体の「2枚」におろされたのである。
ダヴィド失脚後にも、
「泉」流宗家20代めジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルによって
「シャルロット・コルデーの死」は描かれなかった由。
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