チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「牛乳係の奉公人(フェルメール)」

2007年10月07日 21時56分06秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる
「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」は
国立新美術館で先月末から開催されてるが、ますだおかだの
岡田ふうには、まだ「開店、ガラガラ」である。デルフトの
「Vermeer」はオランダ人ではあるが、仏語の動詞
「fermer(フェルメ)」は「閉める、止める」
という意味であるからして合点もいくが、それにしても、
先週、観にいった私には、その空き具合は意外なほどだった。
雨の日がいいかとか、中間ぐらいがいいかとか、開催中のいつごろを
ミルヒ(観る日)にしようかと迷ってたのが、
まったくばからしほどだったのである。さて、
お目当ての絵に単体で描かれてる主人公は、
沢尻エリカ女史、ホルスト・シュタイン(ホルスタインではない)
と並び称される立派なオデコの持ち主である。
牛乳注ぎひとすじ12年、というような古臭いコピーが
ぴったりときそうな女性である。それにしても、
「牛乳を注ぐ女」「ミルクメイド」「台所の召使」
などという「コショウ」は、自衛艦が給油しなければ
アフガンでしか産出しなかったラピスラーッズリがタリバンに
奪われてもフェルメールの青などどうでもいいという
民主党のK女性議員などにクレイムがつけられはしないかと
心配してしまう絵である。「女性はなんとかを産む機械」
という失言で先般話題になった大臣がいたが、先週末、
銀座M越で当人に遭遇した。その所属派閥から、
「COACH買い」にでもいくのかと思いきや、たしか
改装前にはライオン口から入ってすぐ右にあったと思った
そのブランドは、改装後には置いてないようだった。
秘書やミルクメイドにお使いさせるのではなく、
なんとかを産む機械であるはずのご夫人といっしょに
商品券を買いにいくとは「殊勝」な心がけである。
この日、私は銀座にいたのだが、急遽、いったん、
池袋に向かわなくてはならなくなった。時間がなかったので、
車を置いたまま、地下鉄で行ったのだが、帰り、
丸の内線の茗荷谷駅から乗車してきたふたりの女子大生が、
私の真向いに座った。跡見かお茶の水かはわからないが、
隣りの初老オヤジの上着の裾を尻に敷いて
「すみません」などと礼儀正しいところをみせたり、
ふたりともそこそこかわいい顔をしてた(※)。
向いまで聞こえてきてしまったふたりの会話は、
京都の菓子の話から横浜の菓子の話になり、
「赤い靴」の女の子の話になった。ふたりの話は、
歌詞のもとになった女の子は実際に
「横浜港から外国に連れられて」しまった、
という認識で一致してた。ジョット待って、キミたち、
それはおカシいじゃんか、と切り出したかったが、
ズィット(zitto)黙ってるのが賢明だと
何も言わなかったが、彼女らの結論には
明らかに瑕疵がある。ちなみに、銀座に戻った私が
M越で買った菓子は、名古屋が本拠だという
「Giotto」の「和栗のモンブラン・ボンドーネふう」
である。さて、それらはどうでも、この
「牛乳を注ぐ女」という絵は、30数点しか確認されてない
フェルメールの作品の中でも超人気なようである。
たしかに、小さい矩形の中に人目をひく描きかたがされてて、
配色もきまってる。設定も万人受けする。筆致も、
おそらくフェルメールという人は小器用だったのだろう、
パンのプワンティエの精緻さには頭を垂れる。が、
他のフェルメールの絵でもときどきあるのだが、
けっこう雑な塗りの箇所もある。しかしながら、
私がこの絵に強く感じるのは、「ちぐはぐさ」である。まず、
消失点である。窓のそれぞれの桟の延長線は
ひとつの点(右手首の上方)に収束する、と巷では書かれてるが、
私にはそうは見えない。仮想消失点からおもしろいように
ズレてるのである。つぎに、
ハイライトの不自然さである。女性の左小手の肘寄りが
明るすぎる。テーブルの手前の角のハイライトだが、
その横のパンとパン籠の位置と窓との角度から、
シャドウはもっと長いはずである。絵右下の
足温器のシャドウの長さとデンスィティの薄さは、
フェルメールの「リアリティ演出」だろうが、実際には
この程度の離れ加減ではそれほどの差はつかないものである。
その演出のあざとさが逆に鼻につくのである。それから、
注いでるほうの壺の傾け角度は、壺の中にはまだ
かなりの量が残ってそうな角度である。なのに、
落ちてくミルクの勢いは弱い。勢いを抑えてる、
という話にはある程度説明はつく。が、たしかに
ふくよかで力はありそうな女性ながら、
壺を持つ右手と壺を支える左手の様子からは、
いかにも軽いものを持ち、支えてるようにしか見えない。
注いでるほうの壺の容量は注がれてるほうの器の容量と
同等あるいはより大きい、のに、である。また、
女性の目線はミルクのカスケイドを見てない。
注がれる器の形状からして、よほど注意深く
ミルクの行方を追ってないと、注がれるミルクが
器のミルクの表面に衝突してハネあがり、
飛び散ってしまうはずであるが、さすが、
ミルク注ぎひとすじ12年のご奉公である。冗談はさておき、
フェルメールはこの絵を制作してくうちに
「創意と工夫」をあれこれ試行錯誤してったのである。
習作が秀作となってしまった……。
この絵は「いかにもありそう」ながら、実際には
「ありえない」ヴァーチャル・リアリティの世界である。だが、
フェルメールには偉大な思想があって、
この絵にも壮大な命題が隠されてるのかもしれない。
「私はこの命題を説き聞かせる根拠を証明できるが、
それには余白が狭いのでここに記すことはやめておく」
この言いわけを我々似非絵画評論者の間では、
「フェルメールの最終諦理」と呼んでるのである。

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