私の世代で子供のときに野球をやってた者にとって、
ライトという守備位置は、
もっとも下手な者が回されたポズィション、
という認識だったと思う。が、私はその
ライトフィールダーというポズィションが好きで好きでたまらなかった。
幸か不幸か私は肩が強かったので、
草野球ふぜいではピッチャーをやらされることもあった。
ピッチャーはたしかにそれはそれで面白い。が、
外野守備、とくに右翼守備ほど私にとって魅力的なものはなかった。
フライボールを追いかける。そして、捕球する。それが快感なのだ。
メイジャー・リーガーが練習のときにやってるのを見て真似した
背面キャッチ(イチローが日本の野球ファンに普及させた)もじつに楽しかった。
捕球したボールを内野に返球するのがまたゾクゾクする。
常に走者の前に送球することを心がける。
捕殺(アスィスト)したときの気持ちよさは、何にもましてスカッとする。
先日、ブルーアーズの青木がウィリー・メイズばりのバスケット・キャッチをしてたが、
全盛期のイチローが見せたウォール(いわゆるフェンス)によじ登って
ホウムランをもぎ取るプレイは、私がガキの頃は、なんと
後楽園球場の塀の縁上に立って捕球する読売巨人軍の
国松彰右翼手(球界引退後は婿先の自由が丘亀屋万年堂経営)
のプレイが圧巻だった。その国松も、
投手から外野手に転向した口である。
同選手の背番号は36だった。
明治36年(1903年)12月17日にオーヴィル・ライトが操縦するライト・フラアー号は、
36m(120フィート)の飛行に成功した。そして、4回めのトライでは、
兄ウィルバー・ライトが260m(852フィート)まで飛行距離を伸ばした。これが、
いわゆる世界初の有人動力飛行である。今日、
5月30日は、ライト兄弟の兄である
Wilbur Wright(ウィルバー・ライト、1867-1912)が没して100年めにあたる。
有人動力飛行は人類の念願だった、と言われる。
兄弟が実験に選んだのは現在のノース・カロライナ州キティホーク近郊の
"Kill Devil Hills(キル・デヴル・ヒルズ)"の砂丘である。現在は
当時と風景が変わってしまってるが、そこが、
"いい風"が恒常的に吹く地だったからである。
「菩提樹」の主人公には寒風が顔に吹きつけ、
帽子をうしろに飛ばされてしまったが、
ライト兄弟にはこの向かい風が絶好の条件だったのである。
ここを選んだことも飛行実験の成否を分けた。いわば、
天王山である。京都山崎の合戦場跡からも、
サントリー山崎工場からもほど近い現在の八幡市には、
飛行原理を独自に研究して、
動力付き無人飛行機の飛行実験を成功させた二宮忠八が、
飛行機を開発するために事故で死んでった人たちを弔うために
自宅に建てた「飛行神社」がある。この二宮忠八は、若い頃、
学資稼ぎにオリジナルの凧を作って売ったという。
ライト兄弟の飛行機への道も凧の実験が入口だった。
1896年8月10日、それまで飛行機開発の第一人者だった
Otto Lilienthal(オットー・リリエンタール、1848-1896)が、
飛行実験中に墜落死したことが、ライト兄弟を
飛行機開発に駆り立てた。兄弟はまず、
凧の実験からはじめ、それからグライダー、そして、
動力飛行機、と段階を経てったのである。
兄弟は子だくさんのプロテスタントの牧師の倅である。
ともにいわゆる高卒である。独身である。が、
兄弟の中でもとくに仲がよかった二人は、
印刷屋を始める。やがて自転車屋に商売替え。それが、
のちの大成功につながるのである。当時の自転車は
ブルジョワの人気贅沢品で、ふたりは相当儲けたらしい。
実験資金に事欠かなかったのである。また、
ただ自転車を売ってただけではなく、独自の改良を加えたのである。
これが飛行機操縦の操舵のヒントになる。私の特技のひとつは、
自転車を両手放しで乗ることだが、カーヴを曲がるときの
あのバランスの取りかたは、自ら体現してみないと解らない。
メルセデス・ベンツがフル・ステアリングにしたときタイアを大きく傾かせて外に向く、
あの独特の小回りも実際に運転席で体感してみないと解らない。
ふたりは科学的な実験を繰り返して、最終目的に達したのである。
歴史的成功は地元の5人が目撃者となった。が、
マスコミを呼んだ公開実験でなかったことがのちに
いちゃもんをつけられることになる。
フライアー号が宙に浮いてるところは写真にも収められた。
松本智津夫の空中浮遊写真のように。ちなみに、
サヨク人権派弁護士どもの妨害によって松本の死刑は遅らされてる。が、
そんなことは無駄である。なぜなら、たとえ執行されても、
我が国の死刑は絞首刑である。そうすると、
松本は首を吊られても空中浮遊の術で刑を免れてしまうからである。
ともあれ、
ライト兄弟は学者でもなければ有力者の後ろ盾もなかった。だから、
その成功は妬まれ、疎まれた。
"Flight by machines heavier than air is unpractical
and insignificant, if not utterly impossible."
と言われてたように、兄弟はペテン師のごとき扱いを受けた。
当時は一般人はおろか"専門家"でさえ
実際に人が空を飛ぶということが信じれない者もいたのである。
現実には「ただ空を飛ぶというだけ」なら、すでに
当たり前のことだったのにもかかわらず……。
手柄を横取りしようとする輩、
パテント料をぶんどろうとする厚顔野郎、
いちゃもんをつける学者ども。あのスミソニアンも
兄弟に対して酷い仕打ちをしたのである。
自国の軍も評価しなかった。そこで、兄弟は
日独伊など、国外の軍への売り込みの手紙も出してる。
兄弟が開発・発明したパテントは無断使用・盗用された。
兄ウィルバーは訴訟に次ぐ訴訟に追われる毎日となった。そして、
100年前の今日、弱った体に腸チフスを患って、45年の生涯を閉じた。
弟オーヴィルは兄の死の3年後には会社を売却する。
第一次世界大戦で戦闘機が登場した頃である。そして、
第二次世界大戦終結から3年後、76歳のオーヴィルは
巨万の富を残してその波乱に満ちた生涯を閉じた。
死の少し前にジャーナリストのインタヴィューを受け、
その辛辣な質問にオーヴィルはこう答えたという。
(あなたがた兄弟が開発した飛行機でドレスデンは空爆され、
広島・長崎に原爆が落とされましたが……)
「たしかに、軍事目的に使用されることは想定しました。
でも逆に、都市空爆によってドイツや日本をおじけづけさせて
戦争をやめさせることに繋がるように願ったんです」
米国は真珠湾攻撃を"奇襲"で"卑怯"と言う。が、
日本軍は軍事施設だけを攻撃した。彼らのように、
非戦闘員に対する民間人無差別攻撃はしなかった。
E=mgh
故青木日出雄が日航ジャンボ墜落事故のとき、
「(飛行機は)鉄の塊なんですから、落ちるっていうのは
ある意味当然なんです。落ちるのが当たり前なんです」
と言ったとおりで、飛行物体は簡単に落ちる。実際、
ライト兄弟の成功の要因のひとつは、彼らが
"腕のいい"操縦士でもあったことらしい。9年前、
兄弟の初飛行100周年に際して、
ライト・フライアー号を復元する試みが複数行われた。が、
それらは離陸すらできなかった。また、昨年も、
1910年の復元機を飛ばすイヴェントが行われたが、
それも離陸はしたものの飛行中に墜落して、
操縦士2人が死亡するという事故があった。そのように、
ライト兄弟が開発した飛行機は彼らの飛行技術と
"根性"による力も大きかったのである。
私は今でも飛行機が苦手である。高所には恐怖を覚える。
若気の至り、怖いもの知らずで昔は海外旅行もけっこうしたが、
今はもう飛行機でなければ行けないような、
知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい、
とも思わない。だから、
リームスキー=コールサコフの「交響曲第2番(アンタール)」
(1868、1875、1897)の第3楽章、
♪ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・>レー<ミ>レ・>シ<ド>シー│
>ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・>レー<ミ>レ・>シ<ド>シー│
>ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・<ソー<ラ>ソ・>ミ<ファ>ミー│
<ファー<ソ>ファ・>ド<レ>ドー・・<レーーー・●●●●♪
という行進曲を聴いても、パルミラの廃墟を訪れて
"人生の3つの喜び"を贈られたいとも思わない。
今から50年前の昭和37年(1962年)5月は、
NHKの「夢であいましょう」という番組の「今月の歌」として、
「遠くへ行きたい」(永六輔作詞、中村八大"作曲"、ジェリー藤尾歌)
という歌謡曲が新作として発表された。これはのちに、
民放日テレの旅番組のタイトルとしても使われ、その中でも
歌いつがれた。
♪ラー・ー<シ・・<ドー・<ミー│>レー・<ミ>レ・・>ドー・>シー│
●●・>ラ<シ・・<ドー・<ミー│<ソー<ラ>ソ・・>ファー・ーー♪
永六輔&中村八大というコンビは人心を捉え、
大衆の操縦技術に優れた商売上手だったようだ。
この歌謡曲は、日本以外でも、ソ連をはじめとする東欧や北欧、
そして"中東の各諸国"でも大ヒットを記録、したのだという。
「咳、声、喉仏に、知らぬが仏。知らぬなら放っとけ」
とはよく言ったものである。
パリで飛行のデモンストレイションを行ったとき、
フランス語も話す教養もないことを皮肉って寡黙だと訊かれたとき、
オーヴィルはこう答えたという。
"I know of only one bird - the parrot -
that talks; and it can't fly very high."
(拙大意)
「遠くへは行きたいけど、talkは苦手な私が言うのも何ですが、
しゃべる鳥を1種類は知ってます。オウムです。
オウムはよくしゃべりますね。でも、飛ぶのは苦手なようです」
いやいや、松本智津夫なら空中浮遊はお手の物である。ともあれ、
flight(飛行)とwright(職人)は韻を踏んでる。
パパ・ハイドンの「皇帝讃歌」がショパンの「別れの曲」に入れ替わる、
チャップリン"作曲"の"rhymewright"の"Terry's Theme"が
聴きたくなった。
ライトという守備位置は、
もっとも下手な者が回されたポズィション、
という認識だったと思う。が、私はその
ライトフィールダーというポズィションが好きで好きでたまらなかった。
幸か不幸か私は肩が強かったので、
草野球ふぜいではピッチャーをやらされることもあった。
ピッチャーはたしかにそれはそれで面白い。が、
外野守備、とくに右翼守備ほど私にとって魅力的なものはなかった。
フライボールを追いかける。そして、捕球する。それが快感なのだ。
メイジャー・リーガーが練習のときにやってるのを見て真似した
背面キャッチ(イチローが日本の野球ファンに普及させた)もじつに楽しかった。
捕球したボールを内野に返球するのがまたゾクゾクする。
常に走者の前に送球することを心がける。
捕殺(アスィスト)したときの気持ちよさは、何にもましてスカッとする。
先日、ブルーアーズの青木がウィリー・メイズばりのバスケット・キャッチをしてたが、
全盛期のイチローが見せたウォール(いわゆるフェンス)によじ登って
ホウムランをもぎ取るプレイは、私がガキの頃は、なんと
後楽園球場の塀の縁上に立って捕球する読売巨人軍の
国松彰右翼手(球界引退後は婿先の自由が丘亀屋万年堂経営)
のプレイが圧巻だった。その国松も、
投手から外野手に転向した口である。
同選手の背番号は36だった。
明治36年(1903年)12月17日にオーヴィル・ライトが操縦するライト・フラアー号は、
36m(120フィート)の飛行に成功した。そして、4回めのトライでは、
兄ウィルバー・ライトが260m(852フィート)まで飛行距離を伸ばした。これが、
いわゆる世界初の有人動力飛行である。今日、
5月30日は、ライト兄弟の兄である
Wilbur Wright(ウィルバー・ライト、1867-1912)が没して100年めにあたる。
有人動力飛行は人類の念願だった、と言われる。
兄弟が実験に選んだのは現在のノース・カロライナ州キティホーク近郊の
"Kill Devil Hills(キル・デヴル・ヒルズ)"の砂丘である。現在は
当時と風景が変わってしまってるが、そこが、
"いい風"が恒常的に吹く地だったからである。
「菩提樹」の主人公には寒風が顔に吹きつけ、
帽子をうしろに飛ばされてしまったが、
ライト兄弟にはこの向かい風が絶好の条件だったのである。
ここを選んだことも飛行実験の成否を分けた。いわば、
天王山である。京都山崎の合戦場跡からも、
サントリー山崎工場からもほど近い現在の八幡市には、
飛行原理を独自に研究して、
動力付き無人飛行機の飛行実験を成功させた二宮忠八が、
飛行機を開発するために事故で死んでった人たちを弔うために
自宅に建てた「飛行神社」がある。この二宮忠八は、若い頃、
学資稼ぎにオリジナルの凧を作って売ったという。
ライト兄弟の飛行機への道も凧の実験が入口だった。
1896年8月10日、それまで飛行機開発の第一人者だった
Otto Lilienthal(オットー・リリエンタール、1848-1896)が、
飛行実験中に墜落死したことが、ライト兄弟を
飛行機開発に駆り立てた。兄弟はまず、
凧の実験からはじめ、それからグライダー、そして、
動力飛行機、と段階を経てったのである。
兄弟は子だくさんのプロテスタントの牧師の倅である。
ともにいわゆる高卒である。独身である。が、
兄弟の中でもとくに仲がよかった二人は、
印刷屋を始める。やがて自転車屋に商売替え。それが、
のちの大成功につながるのである。当時の自転車は
ブルジョワの人気贅沢品で、ふたりは相当儲けたらしい。
実験資金に事欠かなかったのである。また、
ただ自転車を売ってただけではなく、独自の改良を加えたのである。
これが飛行機操縦の操舵のヒントになる。私の特技のひとつは、
自転車を両手放しで乗ることだが、カーヴを曲がるときの
あのバランスの取りかたは、自ら体現してみないと解らない。
メルセデス・ベンツがフル・ステアリングにしたときタイアを大きく傾かせて外に向く、
あの独特の小回りも実際に運転席で体感してみないと解らない。
ふたりは科学的な実験を繰り返して、最終目的に達したのである。
歴史的成功は地元の5人が目撃者となった。が、
マスコミを呼んだ公開実験でなかったことがのちに
いちゃもんをつけられることになる。
フライアー号が宙に浮いてるところは写真にも収められた。
松本智津夫の空中浮遊写真のように。ちなみに、
サヨク人権派弁護士どもの妨害によって松本の死刑は遅らされてる。が、
そんなことは無駄である。なぜなら、たとえ執行されても、
我が国の死刑は絞首刑である。そうすると、
松本は首を吊られても空中浮遊の術で刑を免れてしまうからである。
ともあれ、
ライト兄弟は学者でもなければ有力者の後ろ盾もなかった。だから、
その成功は妬まれ、疎まれた。
"Flight by machines heavier than air is unpractical
and insignificant, if not utterly impossible."
と言われてたように、兄弟はペテン師のごとき扱いを受けた。
当時は一般人はおろか"専門家"でさえ
実際に人が空を飛ぶということが信じれない者もいたのである。
現実には「ただ空を飛ぶというだけ」なら、すでに
当たり前のことだったのにもかかわらず……。
手柄を横取りしようとする輩、
パテント料をぶんどろうとする厚顔野郎、
いちゃもんをつける学者ども。あのスミソニアンも
兄弟に対して酷い仕打ちをしたのである。
自国の軍も評価しなかった。そこで、兄弟は
日独伊など、国外の軍への売り込みの手紙も出してる。
兄弟が開発・発明したパテントは無断使用・盗用された。
兄ウィルバーは訴訟に次ぐ訴訟に追われる毎日となった。そして、
100年前の今日、弱った体に腸チフスを患って、45年の生涯を閉じた。
弟オーヴィルは兄の死の3年後には会社を売却する。
第一次世界大戦で戦闘機が登場した頃である。そして、
第二次世界大戦終結から3年後、76歳のオーヴィルは
巨万の富を残してその波乱に満ちた生涯を閉じた。
死の少し前にジャーナリストのインタヴィューを受け、
その辛辣な質問にオーヴィルはこう答えたという。
(あなたがた兄弟が開発した飛行機でドレスデンは空爆され、
広島・長崎に原爆が落とされましたが……)
「たしかに、軍事目的に使用されることは想定しました。
でも逆に、都市空爆によってドイツや日本をおじけづけさせて
戦争をやめさせることに繋がるように願ったんです」
米国は真珠湾攻撃を"奇襲"で"卑怯"と言う。が、
日本軍は軍事施設だけを攻撃した。彼らのように、
非戦闘員に対する民間人無差別攻撃はしなかった。
E=mgh
故青木日出雄が日航ジャンボ墜落事故のとき、
「(飛行機は)鉄の塊なんですから、落ちるっていうのは
ある意味当然なんです。落ちるのが当たり前なんです」
と言ったとおりで、飛行物体は簡単に落ちる。実際、
ライト兄弟の成功の要因のひとつは、彼らが
"腕のいい"操縦士でもあったことらしい。9年前、
兄弟の初飛行100周年に際して、
ライト・フライアー号を復元する試みが複数行われた。が、
それらは離陸すらできなかった。また、昨年も、
1910年の復元機を飛ばすイヴェントが行われたが、
それも離陸はしたものの飛行中に墜落して、
操縦士2人が死亡するという事故があった。そのように、
ライト兄弟が開発した飛行機は彼らの飛行技術と
"根性"による力も大きかったのである。
私は今でも飛行機が苦手である。高所には恐怖を覚える。
若気の至り、怖いもの知らずで昔は海外旅行もけっこうしたが、
今はもう飛行機でなければ行けないような、
知らない街を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい、
とも思わない。だから、
リームスキー=コールサコフの「交響曲第2番(アンタール)」
(1868、1875、1897)の第3楽章、
♪ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・>レー<ミ>レ・>シ<ド>シー│
>ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・>レー<ミ>レ・>シ<ド>シー│
>ラ<シ<ドー・ーー<ミーッ・・<ソー<ラ>ソ・>ミ<ファ>ミー│
<ファー<ソ>ファ・>ド<レ>ドー・・<レーーー・●●●●♪
という行進曲を聴いても、パルミラの廃墟を訪れて
"人生の3つの喜び"を贈られたいとも思わない。
今から50年前の昭和37年(1962年)5月は、
NHKの「夢であいましょう」という番組の「今月の歌」として、
「遠くへ行きたい」(永六輔作詞、中村八大"作曲"、ジェリー藤尾歌)
という歌謡曲が新作として発表された。これはのちに、
民放日テレの旅番組のタイトルとしても使われ、その中でも
歌いつがれた。
♪ラー・ー<シ・・<ドー・<ミー│>レー・<ミ>レ・・>ドー・>シー│
●●・>ラ<シ・・<ドー・<ミー│<ソー<ラ>ソ・・>ファー・ーー♪
永六輔&中村八大というコンビは人心を捉え、
大衆の操縦技術に優れた商売上手だったようだ。
この歌謡曲は、日本以外でも、ソ連をはじめとする東欧や北欧、
そして"中東の各諸国"でも大ヒットを記録、したのだという。
「咳、声、喉仏に、知らぬが仏。知らぬなら放っとけ」
とはよく言ったものである。
パリで飛行のデモンストレイションを行ったとき、
フランス語も話す教養もないことを皮肉って寡黙だと訊かれたとき、
オーヴィルはこう答えたという。
"I know of only one bird - the parrot -
that talks; and it can't fly very high."
(拙大意)
「遠くへは行きたいけど、talkは苦手な私が言うのも何ですが、
しゃべる鳥を1種類は知ってます。オウムです。
オウムはよくしゃべりますね。でも、飛ぶのは苦手なようです」
いやいや、松本智津夫なら空中浮遊はお手の物である。ともあれ、
flight(飛行)とwright(職人)は韻を踏んでる。
パパ・ハイドンの「皇帝讃歌」がショパンの「別れの曲」に入れ替わる、
チャップリン"作曲"の"rhymewright"の"Terry's Theme"が
聴きたくなった。
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