[藤山一郎生誕100年]
昭和56年(1971年)の3月、
小学校を卒業して中学が始まるまでの間の
"休み"に、ソヴィエト映画「チャイコフスキー」が
日比谷のいまはなき「有楽座」で封切られた。その初日に、
私は観にいった。映画の音楽の総指揮を執ったのが、
いわゆるディミトリ・ティオムキン、
Дмитрий(ドミートリィ) Тёмкин(チョームキン)
(1895-1979)である。エカチェリーナ2世の「いい人」だった
Потёмкин(パチョームキン)とどんな関係があるのか、
ジェロニモとジャガイモを聴き間違えてしまうことがあるくらいな
拙脳なる私に解るはずもないが、
тём(チョーム)-という接頭辞が「闇の」「黒っぽい」を表す語なので、
いずれも「色黒」な男がそうニックネイムづけられて、
それがサーネイムになったのかもしれない。ともあれ、そのチョームキンが、
1952年に公開された"High Noon(邦題=真昼の決闘)"の中の歌、
"Do Not Forsake Me, Oh My Darlin'"
(ドゥ・ノット・フォセイク・ミー、オウ・マイ・ダーリン)
*forsake=見捨てる(この場合は「do not forsakeで「行かないでくれ」
は、日本でも訳詞をつけてディック・ミネがカヴァーした。
(歌を聴いた記憶をもとに私がカタカナ譜におこしたものなので、
実際の音符とは異なってることを悪しからず了承いただきたい)
***♪●●・【ソー(Do)・・<ドー(not)・<レー(for-)│
<ミー(-sake)・>ドー(me,)、・・<ファー(oh)・>ミー(my)│
>レー(dar-)・>ドー(-lin')】・・●●・●●│
全休♪
春休みにはなかったが、私が小学生だった頃の夏休みには、
「ラジオ体操」というものがあった。
学校がやってたのか、町内会がやってたのか、
それすらも知らないで行かされてた。
ふつうはサボれない。
最寄の会場まで朝っぱら早くから行かなければならないのである。
出席カードみたいなものをあてがわれ、
そこに「確かに出席した」というハンコをもらう仕組みである。が、
それでも私はサボった。
ジミな理由なきハンコではあった。
三分の一くらいは出たが。ともあれ、
そこで行われるラジオ体操だったが、
実際にラジオ(NHK)から音楽が流れてくるのである。が、その前に、
「ラジオ体操の歌」(昭和31年=1956年)という歌が流れてくる。
[新しい朝が来た。
希望の朝だ。
喜びに胸を開け。
大空仰げ。
ラジオの声に健やかな胸を、
この香る風に開けよ。
そーれ、いち、にっ、さん]
これを歌ってたのが日本歌謡界の二大オンチ巨頭の一角、
藤山一郎大先生(1911-1993)だった。そして、この歌の
"作曲"も同先生である。
(歌を聴いた記憶をもとに私がカタカナ譜におこしたものなので、
実際の音符とは異なってることを悪しからず了承いただきたい)
***:♪【ソーーー│<ドーーー・ーー<レー・・<ミーーー・>ドーーー│
<ファーー>ミ・>レー>ドー】・・<レー●●、・>ソーーー│
<レーーー・ーー<ミー・・<ファーーー・<ラーーー│
>ソーーー・ーーーー・・>ミー●●♪
藤山大先生は小泉純一郎のように、
西部劇が好きだったのかもしれない。霧島昇の
「愛染かつら」よりも「アイゼンハワー」が好んだ「真昼の決闘」とか……
冒頭の【ソ<ド<レ<ミ>ド<ファ>ミ>レ>ド】
という音の並びがまったくオソロイである。私には、
ゲイリー・クーパーがじきじきに
"ドゥ・ノット・フォセイク・ミー"と言ってるように聞こえたので、
超ムキになってサボったのである(ウソ)。
さて、
ミラーを撃ち殺して、ケインと妻は馬車で町を去ってくのであるが、
風ひとつない穏やかに晴れた日曜の午後だった。
ケインが馬車で妻と町に帰ってきたのを見た男がそれを床屋に伝えたとき、
「棺桶は?」と訊かれ「2つ」と答えると床屋は「あと2つ要る」と言った。
床屋は4人相手でもケインが完勝することを予測してたのである。
江戸時代末期には日本では、、
[風が吹けば桶屋が儲かる]
などと言ったが、その頃の米国の西部では、
[風が吹かなくてもcooper(=桶屋)が勝つ]
だったのである。
昭和56年(1971年)の3月、
小学校を卒業して中学が始まるまでの間の
"休み"に、ソヴィエト映画「チャイコフスキー」が
日比谷のいまはなき「有楽座」で封切られた。その初日に、
私は観にいった。映画の音楽の総指揮を執ったのが、
いわゆるディミトリ・ティオムキン、
Дмитрий(ドミートリィ) Тёмкин(チョームキン)
(1895-1979)である。エカチェリーナ2世の「いい人」だった
Потёмкин(パチョームキン)とどんな関係があるのか、
ジェロニモとジャガイモを聴き間違えてしまうことがあるくらいな
拙脳なる私に解るはずもないが、
тём(チョーム)-という接頭辞が「闇の」「黒っぽい」を表す語なので、
いずれも「色黒」な男がそうニックネイムづけられて、
それがサーネイムになったのかもしれない。ともあれ、そのチョームキンが、
1952年に公開された"High Noon(邦題=真昼の決闘)"の中の歌、
"Do Not Forsake Me, Oh My Darlin'"
(ドゥ・ノット・フォセイク・ミー、オウ・マイ・ダーリン)
*forsake=見捨てる(この場合は「do not forsakeで「行かないでくれ」
は、日本でも訳詞をつけてディック・ミネがカヴァーした。
(歌を聴いた記憶をもとに私がカタカナ譜におこしたものなので、
実際の音符とは異なってることを悪しからず了承いただきたい)
***♪●●・【ソー(Do)・・<ドー(not)・<レー(for-)│
<ミー(-sake)・>ドー(me,)、・・<ファー(oh)・>ミー(my)│
>レー(dar-)・>ドー(-lin')】・・●●・●●│
全休♪
春休みにはなかったが、私が小学生だった頃の夏休みには、
「ラジオ体操」というものがあった。
学校がやってたのか、町内会がやってたのか、
それすらも知らないで行かされてた。
ふつうはサボれない。
最寄の会場まで朝っぱら早くから行かなければならないのである。
出席カードみたいなものをあてがわれ、
そこに「確かに出席した」というハンコをもらう仕組みである。が、
それでも私はサボった。
ジミな理由なきハンコではあった。
三分の一くらいは出たが。ともあれ、
そこで行われるラジオ体操だったが、
実際にラジオ(NHK)から音楽が流れてくるのである。が、その前に、
「ラジオ体操の歌」(昭和31年=1956年)という歌が流れてくる。
[新しい朝が来た。
希望の朝だ。
喜びに胸を開け。
大空仰げ。
ラジオの声に健やかな胸を、
この香る風に開けよ。
そーれ、いち、にっ、さん]
これを歌ってたのが日本歌謡界の二大オンチ巨頭の一角、
藤山一郎大先生(1911-1993)だった。そして、この歌の
"作曲"も同先生である。
(歌を聴いた記憶をもとに私がカタカナ譜におこしたものなので、
実際の音符とは異なってることを悪しからず了承いただきたい)
***:♪【ソーーー│<ドーーー・ーー<レー・・<ミーーー・>ドーーー│
<ファーー>ミ・>レー>ドー】・・<レー●●、・>ソーーー│
<レーーー・ーー<ミー・・<ファーーー・<ラーーー│
>ソーーー・ーーーー・・>ミー●●♪
藤山大先生は小泉純一郎のように、
西部劇が好きだったのかもしれない。霧島昇の
「愛染かつら」よりも「アイゼンハワー」が好んだ「真昼の決闘」とか……
冒頭の【ソ<ド<レ<ミ>ド<ファ>ミ>レ>ド】
という音の並びがまったくオソロイである。私には、
ゲイリー・クーパーがじきじきに
"ドゥ・ノット・フォセイク・ミー"と言ってるように聞こえたので、
超ムキになってサボったのである(ウソ)。
さて、
ミラーを撃ち殺して、ケインと妻は馬車で町を去ってくのであるが、
風ひとつない穏やかに晴れた日曜の午後だった。
ケインが馬車で妻と町に帰ってきたのを見た男がそれを床屋に伝えたとき、
「棺桶は?」と訊かれ「2つ」と答えると床屋は「あと2つ要る」と言った。
床屋は4人相手でもケインが完勝することを予測してたのである。
江戸時代末期には日本では、、
[風が吹けば桶屋が儲かる]
などと言ったが、その頃の米国の西部では、
[風が吹かなくてもcooper(=桶屋)が勝つ]
だったのである。
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