昨日、うちに帰ってTVを点けたらニュースのスポーツ・コーナーをやってて、
パラリンピックの視覚障害の陸上競技を映し出してた。
伴走者が手を引いて走ってた。でも、
伴走者がバテてしまったらどうするのだろう。
くだランナーと思われるかもしれないが、
「24時間TV」で坂本雄次が置いてかれちゃう、
みたいなあってはならない図である。まぁ、
コウモリが翼を広げてグライドしてる姿と
北方四島を除いた北海道の形が区別できない拙脳なる私が
疑問に思う程度の取るに足らない疑問である。ときに、
疑問といえば、
batがなぜコウモリと野球のバットの両方を表すのか、とか、
私が生まれた昭和30年代には
日本のプロ野球には「松竹ロビンズ」だとか
「大映ユニオンズ」「東映フライヤーズ」だとかはあったけれど、
「日活ユーチャンズ」とか「にっかつポーンスターズ」
みたいのはなぜなかったのか、
世の中には不思議で満ちあふれてる。
「日活」というと、私より少し上の世代の男は
「ロマンポルノ」と連想すると思う。が、
"ガチンコ"好きだった私は"前張り"などをして演技する
「ロマンポルノ」はほとんど観たことがない。
「日活」という呼称は「日本活動写真」の略称らしい。
「ツタンカーメン」が「ツタン仮面」だと思ってた拙脳なる私は
知らなかった。ともあれ、100年前の
明治45年3月に「日本活動フイルム株式会社」として創立されたが、
証券取引所で「活フイ」という略号で呼ばれたため、
「フイになる」のでは縁起が悪いということで、
同年に大正と元号が改められてのちの9月10日に、
「日本活動写真株式会社」として再スタートした。
創立の翌年には、白髭橋東詰の北側、
現在の「旧墨田区立堤小学校跡地(昨年、梅若小に統廃合)」の
日活向島撮影所に「グラスステージ」と呼ばれた
全天候型総ガラス張りのスタジオが開設された。このスタジオは、
10年後の関東大震災にも耐えたが、震災後の産業の
関西方面移転風潮の中、閉鎖されたという。
ともあれ、
当座は、「目玉の松っちゃん」尾上松之助(1875年-1926)が
看板スターだった。が、
サイレントからトーキーへの移行と同時に経営も悪化して、
配給部門だけを残して事実上、映画制作から退くことになった。
戦後しばらくして制作を再開した日活は、
他者のスターを引き抜いたり、スカウトしたり、
「ニューフェイス」という「俳優入社試験」作戦に出て、
宍戸錠、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、浅丘ルリ子女史、
北原三枝女史、芦川いづみ女史、などの人材を集め、
業績が上向いた。ところが、
赤木圭一郎が撮影所内でゴーカート激突死し、
北原女史が石原裕次郎と、芦川女史が藤竜也と結婚引退して、
また経営が下がってった。同時に、
浜田光夫、山内賢、高橋英樹、渡哲也、藤竜也、杉良太郎、
吉永小百合、山本陽子女史、和泉雅子女史、松原智恵子女史などの
青春映画が日活の看板となってったのである。
そういう中で、邦画業界全体が「斜陽」といわれ、不振に陥った。
私が中一のとき、ついに日活は破綻して、
「ポルノ路線」に転向してしまった。たしかに、この頃観てたのは
洋画だけだった。しかしながら、
その後も紆余曲折を経てなお何だかんだで生き残り、
現在も続いてるのである。
上記のような人材獲得作戦の中で、
舞台人にも触手を伸ばした日活が契約した女優のひとりに、
渡辺美佐子(1932-)女史がいる。同女史は、
現在の西麻布、麻布区笄町で生まれた。
父親の生家は信州松本の和菓子屋開運堂である。
今から50年前の日活映画に
「目をつぶって突走れ(1962)」
という同女史が主役の作品がある。
監督になる前の中島丈博がシナリオに関わった。
あらすじをかいつまむとこうである。
中一の鈴木麻男(子役:渡辺篤史)は、
両親が離婚して祖母トメ子(原泉)と二人暮らし。
新聞配達のアルバイトをしてる。ある日、
母豊美(渡辺美佐子)がホテルから男と出てくるとこを見てしまう。いっぽう、
学校では若くて美しい吉村京子先生(香月美奈子)が新任としてやってきた。
そのうえ、京子先生は麻男が祖母と住むアパートに越してきたのである。
美人先生が同じ共同住宅に住むことに麻男は嬉しさを覚えたが、
「建もの探訪」するまでもなかった。が、
憧れの京子先生の結婚相手がクラスのイヤな野郎小林徹の父だと知り、
麻男は失望する。母親が恋しくなり、そのアパートを訪ねた麻男に
さらにショックが待ち受けてた。
京子先生の婚約者である徹の父が自分の母親とイチャツイてたのである。
翌日、学校で徹に悪口を言われた麻男は、徹を母親のアパートに連れてく。
父親の痴態を見てしまった徹はショックで道に飛び出し、車にはねられてしまう。
新聞は事故の原因を親と教師の三角関係と書きたてた。ために、
京子先生は学校を辞めるはめになってしまう。
麻男は泣いて京子先生に許しをこう。
心優しい京子先生は「許すからお母さんのことも許してあげるのよ」と諭す。
横浜駅で京子先生を見送ると、麻男は母親のアパート探訪へと向った……。
祖母役の故原泉(はら・せん、1905-1989)女史は、左翼舞台人くずれで、
私がガキの頃のTVドラマの意地悪ばあさん役といえば同女史だった。
同級生徹の父役の故田中明夫(たなか・あきお、1926-2003)も、
悪役としてよく出てた俳優だった。
子役の麻男を演じたのが、この映画がデビュー作だった
渡辺篤史(わたなべ・あつし、1947-)は、俳優というよりは
テレ朝の長寿番組「建もの探訪」で知られてる。
この頃は「劇団若草」に所属してたジャリ・タレである。同じく
「劇団若草」から同級生の可憐な女の子役として出演してたのが、
酒井和歌子(さかい・わかこ、1949-)女史である。のちには
東宝の専属となって「若大将」の2代めマドンナとして開花した。そして、
麻男が憧れた若い美人先生に扮したのは、
香月美奈子(かづき・みなこ、1937-)女史である。同女史は、
共立の女子高生だった17歳のときに「ミス銀座令嬢」コンテストで優勝。翌年、
卒業と同時に松竹に入って銀令子(しろがね・れいこ)という芸名で
映画デビューした。が、「ミス銀座令嬢」コンテストの審査員で目を掛けてくれてた
大スター月丘夢路女史が松竹から日活に移籍したのに伴って、
同女史も日活に移り、芸名を香月美奈子と改めた。
日活では90本近くの作品に出演したが、
青春もののヒロインからアクションものの愛人・ホステス役となり鳴かず飛ばずで、
1966年の武智鉄二監督「源氏物語」の葵上役が最後の出演作となった。
今ふうに言えば「目ぢから」のある女優さんだった。思えば、
先生役がもっともハマってたかもしれない。
アオゲば尊し、我が師の恩。
パラリンピックの視覚障害の陸上競技を映し出してた。
伴走者が手を引いて走ってた。でも、
伴走者がバテてしまったらどうするのだろう。
くだランナーと思われるかもしれないが、
「24時間TV」で坂本雄次が置いてかれちゃう、
みたいなあってはならない図である。まぁ、
コウモリが翼を広げてグライドしてる姿と
北方四島を除いた北海道の形が区別できない拙脳なる私が
疑問に思う程度の取るに足らない疑問である。ときに、
疑問といえば、
batがなぜコウモリと野球のバットの両方を表すのか、とか、
私が生まれた昭和30年代には
日本のプロ野球には「松竹ロビンズ」だとか
「大映ユニオンズ」「東映フライヤーズ」だとかはあったけれど、
「日活ユーチャンズ」とか「にっかつポーンスターズ」
みたいのはなぜなかったのか、
世の中には不思議で満ちあふれてる。
「日活」というと、私より少し上の世代の男は
「ロマンポルノ」と連想すると思う。が、
"ガチンコ"好きだった私は"前張り"などをして演技する
「ロマンポルノ」はほとんど観たことがない。
「日活」という呼称は「日本活動写真」の略称らしい。
「ツタンカーメン」が「ツタン仮面」だと思ってた拙脳なる私は
知らなかった。ともあれ、100年前の
明治45年3月に「日本活動フイルム株式会社」として創立されたが、
証券取引所で「活フイ」という略号で呼ばれたため、
「フイになる」のでは縁起が悪いということで、
同年に大正と元号が改められてのちの9月10日に、
「日本活動写真株式会社」として再スタートした。
創立の翌年には、白髭橋東詰の北側、
現在の「旧墨田区立堤小学校跡地(昨年、梅若小に統廃合)」の
日活向島撮影所に「グラスステージ」と呼ばれた
全天候型総ガラス張りのスタジオが開設された。このスタジオは、
10年後の関東大震災にも耐えたが、震災後の産業の
関西方面移転風潮の中、閉鎖されたという。
ともあれ、
当座は、「目玉の松っちゃん」尾上松之助(1875年-1926)が
看板スターだった。が、
サイレントからトーキーへの移行と同時に経営も悪化して、
配給部門だけを残して事実上、映画制作から退くことになった。
戦後しばらくして制作を再開した日活は、
他者のスターを引き抜いたり、スカウトしたり、
「ニューフェイス」という「俳優入社試験」作戦に出て、
宍戸錠、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、浅丘ルリ子女史、
北原三枝女史、芦川いづみ女史、などの人材を集め、
業績が上向いた。ところが、
赤木圭一郎が撮影所内でゴーカート激突死し、
北原女史が石原裕次郎と、芦川女史が藤竜也と結婚引退して、
また経営が下がってった。同時に、
浜田光夫、山内賢、高橋英樹、渡哲也、藤竜也、杉良太郎、
吉永小百合、山本陽子女史、和泉雅子女史、松原智恵子女史などの
青春映画が日活の看板となってったのである。
そういう中で、邦画業界全体が「斜陽」といわれ、不振に陥った。
私が中一のとき、ついに日活は破綻して、
「ポルノ路線」に転向してしまった。たしかに、この頃観てたのは
洋画だけだった。しかしながら、
その後も紆余曲折を経てなお何だかんだで生き残り、
現在も続いてるのである。
上記のような人材獲得作戦の中で、
舞台人にも触手を伸ばした日活が契約した女優のひとりに、
渡辺美佐子(1932-)女史がいる。同女史は、
現在の西麻布、麻布区笄町で生まれた。
父親の生家は信州松本の和菓子屋開運堂である。
今から50年前の日活映画に
「目をつぶって突走れ(1962)」
という同女史が主役の作品がある。
監督になる前の中島丈博がシナリオに関わった。
あらすじをかいつまむとこうである。
中一の鈴木麻男(子役:渡辺篤史)は、
両親が離婚して祖母トメ子(原泉)と二人暮らし。
新聞配達のアルバイトをしてる。ある日、
母豊美(渡辺美佐子)がホテルから男と出てくるとこを見てしまう。いっぽう、
学校では若くて美しい吉村京子先生(香月美奈子)が新任としてやってきた。
そのうえ、京子先生は麻男が祖母と住むアパートに越してきたのである。
美人先生が同じ共同住宅に住むことに麻男は嬉しさを覚えたが、
「建もの探訪」するまでもなかった。が、
憧れの京子先生の結婚相手がクラスのイヤな野郎小林徹の父だと知り、
麻男は失望する。母親が恋しくなり、そのアパートを訪ねた麻男に
さらにショックが待ち受けてた。
京子先生の婚約者である徹の父が自分の母親とイチャツイてたのである。
翌日、学校で徹に悪口を言われた麻男は、徹を母親のアパートに連れてく。
父親の痴態を見てしまった徹はショックで道に飛び出し、車にはねられてしまう。
新聞は事故の原因を親と教師の三角関係と書きたてた。ために、
京子先生は学校を辞めるはめになってしまう。
麻男は泣いて京子先生に許しをこう。
心優しい京子先生は「許すからお母さんのことも許してあげるのよ」と諭す。
横浜駅で京子先生を見送ると、麻男は母親のアパート探訪へと向った……。
祖母役の故原泉(はら・せん、1905-1989)女史は、左翼舞台人くずれで、
私がガキの頃のTVドラマの意地悪ばあさん役といえば同女史だった。
同級生徹の父役の故田中明夫(たなか・あきお、1926-2003)も、
悪役としてよく出てた俳優だった。
子役の麻男を演じたのが、この映画がデビュー作だった
渡辺篤史(わたなべ・あつし、1947-)は、俳優というよりは
テレ朝の長寿番組「建もの探訪」で知られてる。
この頃は「劇団若草」に所属してたジャリ・タレである。同じく
「劇団若草」から同級生の可憐な女の子役として出演してたのが、
酒井和歌子(さかい・わかこ、1949-)女史である。のちには
東宝の専属となって「若大将」の2代めマドンナとして開花した。そして、
麻男が憧れた若い美人先生に扮したのは、
香月美奈子(かづき・みなこ、1937-)女史である。同女史は、
共立の女子高生だった17歳のときに「ミス銀座令嬢」コンテストで優勝。翌年、
卒業と同時に松竹に入って銀令子(しろがね・れいこ)という芸名で
映画デビューした。が、「ミス銀座令嬢」コンテストの審査員で目を掛けてくれてた
大スター月丘夢路女史が松竹から日活に移籍したのに伴って、
同女史も日活に移り、芸名を香月美奈子と改めた。
日活では90本近くの作品に出演したが、
青春もののヒロインからアクションものの愛人・ホステス役となり鳴かず飛ばずで、
1966年の武智鉄二監督「源氏物語」の葵上役が最後の出演作となった。
今ふうに言えば「目ぢから」のある女優さんだった。思えば、
先生役がもっともハマってたかもしれない。
アオゲば尊し、我が師の恩。
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