チャイコフスキー tranquillo トランクイッロ トランクィロ 意味
今月初め、菅直人は会期が終わったらすぐにでも向かわなければならない
東北方面とは正反対の四国でお遍路遊山だったのだそうである。
原発事故不始末(というより、故意に被害を増大させたのではないか
とさえ思えるほどの行状だった)の張本人のくせに、
暢気で結構なことである。そもそも、
非日本人が四国遍路しても意味はない。それはさておき、
会期中でなくとも、国会議員には歳費が充てられ、文書通信費が賄われ、
期末手当がふるまわれる。政党交付金制度の恩恵にも浴してる。
日本で日本人として国政に進出してまんまと総理大臣にまでなって、
日本の国益を害することばかりした罪は重い。
菅が便宜をはかってた国ならば、北でも南でも国家反逆罪で死刑である。
そんな心配など一切ない日本では、その民族性どおり、
思い放題やり放題の厚顔忌無恥ぶりである。
いっぽう、
我が日本人ときたらどうだ?
お人好しにもほどがある。
日米戦争敗戦以降、どんなに汚いことや卑怯なことをされても、
当該国の国旗を踏みつけたり焼いたりすることなど聞いたこともない。
けっして、
<<日本の
大地震を
お祝います。>>
という安っぽい紙の垂れ幕を掲げたりすることもない。いっぽうで、
戦後は一部の公立学校教諭などは、
日本の国旗・国歌にさえ敬意を払わない、という呆れかえりぶりである。
非日本人だから自国の国旗・国家でない、という屁理屈は通らない。
日本人として税金から糧を得てるのだから。ともあれ、
本来の日本とは、日本人とは、
交戦中にあの悪どさの極みであるフランクリン・ルーズヴェルトが死んだときでさえ、
鈴木貫太郎内閣が米国に大統領の死を悼む弔電を打ったような国である。
もっとも、そんなことを相手は好意に受け取るはずもないが。ちなみに、
鈴木貫太郎は下総関宿藩久世家家臣の倅だが、
侍従長時代、2.26事件で襲撃された人物の一人である。
足の付根と頭と心臓脇という致命的な部位に被弾して倒れたところに
軍刀でとどめを刺されそうになったとき、押さえつけられてた夫人が大声で、
「老人ですからとどめを刺すのだけはおやめください。
どうしてもとどめを刺さなければならないのなら私が致します」
と毅然と言い放なって、決起将校の
血気盛んな心をtranquillizeしたのである。ところで、
レーガンと鈴木貫太郎はそれぞれ、襲撃されて心臓のわずか脇に被弾した経験と、
最高齢で米国大統領、大日本帝国内閣総理大臣に就いた、という共通点がある。
すぐに当たり散らすためにイラカン(苛菅)と呼ばれた菅直人とは対照的に、
鈴木貫太郎は日露戦争の日本海海戦で多大な戦功をあげ、
日本のために尽くした海軍軍人だった。厳しい戦闘姿勢で
オニカン(鬼貫)として知られた人物である。
ときに、
ポーランド語で「知る」という意味の動詞poznac(ポズナーチ、cは本当は特殊文字)の
過去分詞であるpoznany(ポズナニ、=知られた)がもとになってる
ポーランドの都市ポズナン(ポズナニ)が出身地であるサーネイムに
Poznanski、Poznanskyというものがある。
チャイコフスキー研究の世界的権威であるAlexander Poznanskyも投稿するウェブサイト、
"Tchaikovsky Research"の中に、その
ポズナンスキーと共著もある弟子のような人物がhostのごとく君臨する
"Forum"というものがある。
世界じゅうのチャイコフスキー好きが投稿するだけあって、
そこには、たまにおもしろい投稿がある。
ここを読んでれば(私は英語も話せないので
host氏のような小難しい言い回しを多用されると
その真意がつかみかねることも多いのだが)
世界のチャイコフスキー好きの"認識具合"がよくわかる。
先日、チャイコフスキーの「交響曲第5番」の第1楽章主部の
テンポとメトロノーム指示に関して、不毛な論議がなされてた。ある投稿者が、
副次主題であるいわゆるワルツの部分の速度調整標語とメトロノームの数字について、
このような旨の意見を述べた。
<<"Molto piu tranquillo"の"tranquillo"は英語でいう"calm"である。が、
両翼vnには"molto cantabile ed espr."なる表情付けが加えられてる。
もし、メトロノーム記号で付点四分音符=92だとしたら、これらは相反する。だから、
92はチャイコフスキーのミスで本来は62だったはずである>>
と主張した。対して、host殿はこう反駁する。
<<"tranquillo"は"気分"について述べてるのであって、
テンポにまで言い及んでるのではない。それに、自筆譜にもそう記載されてるし、
ユルゲンソンが出版するにあたってチャイコフスキーは自ら校正してるので、
数字を間違えたままにしてるはずはない。よって、
付点四分音符=92は正しい>>
(註; molto=非常に、piu(=英語のmore)=修飾する副詞の意味の程度を増す、
cantabile=歌うように、ed(=e)=and、espr.(=espressivo)=表情豊かに、
tranquillo=英語のtranquilizerと同源で、
落ち着かせて、緩和して、静かに、平常心で)
他にも投稿した人がいたのだが、チャイコフスキー大好き人間たちが集うだけあって、
巷の指揮者などという芸術家気取りの鼻持ちならない輩どものほとんどが
チャイコフスキーの指示を無視してこの部分を遅く演奏することに嫌悪してる人もいた。
通常のチャイコフスキーに関する語らいではまず見られないものである。なにしろ、
99パーセントの人々がバーンスタイン、ムラヴィンスキーに代表されるような
曲解指揮者の絶大なるファンだからである。ともあれ、
上記おふたかたはともに間違ってる。
要点は2つ。
1)付点四分音符=92、の数字は間違ってない。
2)"Molto piu tranquillo"の"tranquillo"は、
"気分"だけでなく"テンポ"にも言い及んでる。
というのが正しい。ところで、
いわゆる"表情記号"である"tranquillo"は、
バッハの時代には使われてない。どころか、
速度標語さえなかったのである。が、ほぼ同時代の
いわゆる"四季"のヴィヴァルディにおいては、
"Allegro" "Largo" "Adagio"などのような速度標語、そして、
それに付随する"non molto"のようなものが記されてる。が、
"表情付け標語"は出てこない。
その3/4世紀以上も後のモーツァルトにも"tranquillo"は出てこない。
これが出てくる有名どころとなると、これまた、
"ものの始め"に欠かせない楽聖である。
・ベートーヴェン「弦楽四重奏第16番」第3楽章
Lento assai, cantante e tranquillo
ただし、この使いかたは、この楽章全体を支配してるので、
チャイコフスキーの交響曲第5番第1楽章の"Molto piu tranquillo"という、
それまでの速度標語をマイナーチェインジするものとは性質を異にする。
ベートーヴェン以降の"tranquillo使い"といえば、
メンデルスゾーンである。が、同人もその使用例の多くでは
曲の途中で微調整する意図では"tranquillo"は用いてない。ところが、
21歳のときに作曲し、23歳のときに初演・改訂した
"Die Hebriden(英語でThe Hebrides)"
いわゆる
"Die Fingalshoehle(英語でFingal's Cave)"
「ヘブリディーズ諸島」「フィンガルの洞窟」序曲
では、第2主題の再現時に、クラリネットのソロに
"tranquillo assai(トランクイッロ・アッサイ)"
(アッサイはその副詞の意味を強める:きわめて)
と附してるのである。これだけだったら、
たとえここでテンポを落とさない演奏がいかに不自然だとしても、
速度にまで言い及んでるとは断じれない。が、
この第2主題の短いながら絶妙な再現が終わると、
総譜全体への指示として、
"Animato, in tempo(アニマート、イン・テンポ)"
という指示がなされてるのである。
アニマートは「活気づけて」という意味であり、
あきらかにテンポに言及した標語である。ここでは、
メンデルスゾーンはイン・テンポ(曲本来のテンポ)に戻すように
指示してるのである。
この「フィンガルの洞窟」が影響を与えたのかどうかは、
ソン・スンホンと三島由紀夫の顔を瞬時には判別できない
拙脳にして音楽の専門家でない私は知らないが、
メンデルスゾーンの子の世代となると、様相は一変する。
ブラームス、ドヴォルジャーク、グリーグ、チャイコフスキー、などが、
"tranquillo"をそれまでの"気分""表情付け"以外に、
それまでのテンポを微調整する意味をも含ませた用いかたを
普通にするようになったのである。
・ブラームス「交響曲第2番」(1877)第1楽章
Allegro non troppo - un poco stringendo - ritard.
- in tempo, ma piu tranquillo - poco rit.
- in tempo, sempre tranquillo - 終い
・同「悲劇的序曲」(1880)
Allegro non troppo - Molto piu moderato - Tempo primo ma tranquillo
(cf; 「ヴァイオリン・ソナタ第2番」(1886)第2楽章
Andante tranquilloは旧来の使用法である)
・ドヴォルジャーク「ピアノ協奏曲」(1876)第1楽章
Allegro agitato
- Poco tranquillo - Tempo primo - Poco tranquillo - Tempo primo
・同「ピアノ四重奏曲第2番」(1887)第4楽章
Allegro con fuoco - Poco sostenuto e tranquillo
(cf; 交響詩「真昼の魔女」(1896)は旧来の使用法である)
・グリーグ「抒情小曲集第2集(op38)」(1883)第8曲「カノン」
Allegretto con moto - Piu mosso, ma tranquillo
といった用例がある。これ以降の作曲家にもあるのは当然である。
さて、
チャイコフスキーにおいては、
・「交響曲第1番」(1866-68、1874改訂)第1楽章
Allegro tranquillo - Poco piu animato - a tempo - Poco piu animato
・「ピアノ協奏曲第1番」(1874-75、1879改訂、1888更新)第3楽章
Allegro con fuoco - Molto piu mosso - Tempo primo ma tranquillo
・バレエ「眠れる森の美女」(1888-89)第2幕第10曲
[Entr'acte and Scene de la chasse royale]
Allegro con spirito - Un poco piu tranquillo
・弦楽六重奏「フィレンツェの思い出」(1890)第1楽章
Allegro con spirito - Tranquillo - in Tempo giusto
というように使われてる。作曲の師であるニコラーイ・ザレンバや
アントーン・ルビンシチェーインがどのような使いかたをしてたか知らないので
なんとも言えないが、もちろん、
通常のイタリア語の"tranquillo"やそのもとであるラテン語の"tranquillus"に
"速度を減じる"などという意味はない。が、
少なくとも、クラ音の世界では19世紀後半から、
"tranquillo"を"気分(表情付け)"の意味としてだけでなく、
"テンポ"にも関わる意味として用いられるのが普及してきた、とはいえる。
ブラームスの「交響曲第2番」では、ひとたびテンポを上げてまた落とし、
もとのテンポに戻す際にもとのテンポよりトランクイッロで、としてる。これは、
明らかにテンポにまで言い及んでるのである。「悲劇的序曲」も同様である。
ドヴォルジャークもまた、「ピアノ協奏曲」において
「ポーコ・トランクイッロ」と変じたあとに「テンポ・プリーモ」と記してるので、
この"tranquillo"が明らかに"速度を減じる"役を託されたことが判る。
「ピアノ四重奏曲第2番」では、「ポーコ・ソステヌート・エ・トランクイッロ」と、
やはり速度を減じる意味の"sostenuto"と並列されてるので、
この"tranquillo"もまた"僅少な減速"を要求してるのが明白である。が、
そういう風潮に対して誤解を生じやすいことをしたのがグリーグである。まず、
「アレグレット・コン・モート」という速度標語自体が矛盾を孕んでる。
"速度の数直線"を想定してみる。
[(遅い)マイナス]←--アンダーンテ--アンダンティーノ--(モデラート)--0--アレグレット--アッレーグロ--→[プラス(速い)]
"Moderato*"がこの数直線上の0の負方向の直近に位置すると仮定する。
(*「モデラート・アッサイ」は「モデラート」より遅い。つまり、モデラートは負の方向性を持つ速度標語である)
"Allegro"は正の方向(右方向)であり、"Andante"は負の方向(左方向)である。
アレグレットは速度数直線上で正方向への方向性を有するアッレーグロの
その性質を弱めるもの、つまり、負の方向に引っ張られた形である。なのに、
「コン・モート」(動きをつけて)という、
速度的に正の方向に引っ張る附随語を加えてるのである。つまり、この
「アレグレット・コン・モート」はアッレーグロ寄りのアレグレットという意味だと推察される。そこへまた、
「ピウ・モッソ」(もっと動きをつけて)という"速度変化"を要求する。おそらく、
これでアッレーグロぐらいの速さになるわけである。ところが、
そこにさらに「マ・トランクイッロ」(ただし、トランクイッロで)という語を足してるのである。
アッレーグロからほんの僅か負の方向に下方修正しろ、ということと解すよりほかない。
"速度の数直線"で示せば、このようになる。
←アレグレット--(1)アレグレット・コン・モート--(1)へのピウ・モッソ、マ・トランクイッロ--((1)へのピウ・モッソ)--アッレーグロ→
これだったら、イタリア語の速度標語はもっと簡潔にして、
メトロノームの数字で指示すべきである。
あるいは、グリーグはこの"tranquillo"に
"速度"の意味を持たせてないだけなのかもしれない。いずれにしても、
わかりにくい、誤解を招きやすい表記、
もしくは、グリーグが頭があまり整理されてない人物だったか、である。
それはさておき、
「ピアノ協奏曲第1番」の最終稿においてチャイコフスキーは、
「アッレーグロ・コン・フォーコ」を「モルト・ピウ・モッソ」で加速したのち、
「テンポ・プリーモ」でもとのテンポに戻すのであるが、そこに
「マ・トランクイッロ」(ただし、トランクイッロで)と付け加える。つまり、
もとのテンポよりわずかに遅いテンポを要求してる。
「眠れる森の美女」では、「アッレーグロ・コン・スピーリト」に対して、
「ウン・ポーコ・ピウ・トランクイッロ」(ほんのわずかにトランクイッロで)と指定してる。
「フィレンツェの思い出」では、「アッレーグロ・コン・スピーリト」に対して、
「トランクイッロ」と変化をつけてまた「イン・テンポ・ジュスト」と、
もとのテンポにきっちり戻すように請求してる。いっぽう、
もっとも早期の「交響曲第1番」では、第1楽章の全体の速度標語として、
「アッレーグロ・トランクイッロ」としてるので、あたかも
旧来の用法を採ってるかのように思わせてる。が、
第2主題の前で「ポーコ・ピウ・アニマート」(少し動きを増して)という
加速の指示出しをするのである。この用法は、
もとの速度に対してトランクイッロ、という常套を破って、
まずトランクイッロで始めて途中で速度を速める、という意味において画期的である。
では、
問題の「交響曲第5番」(1888)第1楽章はどうかといえば、
Allegro con anima
(付点四分音符=104→(単純には置き換えれないが)四分音符換算=156)
- Un pochettino piu animato - Molto piu tranquillo
(註; con=前置詞(=英語のwith)、anima=名詞(=精神、空気の動き、呼吸)、
un pochettino(=un pocoよりもっと少なく)、ちょっぴり、
piu=副詞(=英語のmore)=修飾する副詞の意味を増す。したがって、
その副詞が肯定的な意味(たとえば速く)ならさらに速く、
否定的な意味(遅く)ならさらに遅く。
animato=動詞animare(生気を吹き込む、活気づける)の分詞、animaと同源
という構成になってる。
付点四分音符=104の「アッレーグロ・コン・アーニマ」を、
「ウン・ポケッティーノ・ピウ・アニマート」と変速して付点四分音符=108ほどにして、
「モルト・ピウ・トランクイッロ」で付点四分音符=92にテンポを減じて、
そのワルツを第3楽章の3/4拍子の四分音符=138のワルツと同テンポ**に設定してる。
(**6/8拍子と3/4拍子の1小節の音価はともに付点二分音符分で同じ。
6/8拍子は1小節内で2拍、3/4拍子は1小節内で3拍。
[92/2=138/3] よって、
6/8拍子で付点四分音符=92と、3/4拍子で四分音符=138とは、同速度)
こうしたチャイコフスキーの"tranquillo"を用いた例から明かなのは、
"con anima"、"con spirito"、"con fuoco"の"反意"として扱い、
"piu mosso"や"piu animato"に対してその逆向きの調整の役割を担わせてる、
ということである。
"Spirito"と"anima"はどちらも「呼吸」を意味する語である。
「呼吸」は「吸って、吐いて(<、>)」というヒトの「動き」を生じさせ、
「生」を与える。そこに「精神」や「魂」が宿ると前科学時代のヒトは考えた。
"con fuoco"は(直訳=火を持って)「火を焚いて」「火を焚いたように熱く」である。
したがって、
「アッレーグロ・コン・スピーリト」「アッレーグロ・コン・アーニマ」「アッレーグロ・コン・フォーコ」は、
「(チャイコフスキーが考える)普通のアッレーグロ(四分音符=126乃至138)」よりやや速い。
四分音符=138乃至144あたりである。いっぽう、上記に示したとおり、
チャイコフスキーがそれらの語の"逆向き"として用いた「トランクイッロ」には、
「クール・ダウン」という"気分"の意味だけでなく
「わずかに遅く」という"テンポ減"の意味をも含めているのは明かである。
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