最近ツイッターを見ると、たびたび芋煮会という言葉を目にしている。当方、若いころはプロテスタントの教会に通っていたので、そのころの教会の牧師先生が山形出身で芋煮会というのは山形や近辺の県の郷土の行事と聞いていた。
こちらは千葉、といっても房総より東京に近い市川市の生まれだから、芋煮という言葉さえまったく知らなかったが牧師先生と弟さんが山形だったからよく話題に出たわけだ。よっぽど楽しい行事だったらしいとは思っていた。近所となりの知り合い同士が秋の取り入れが終わったころに野外で集まってサトイモや肉や野菜をたくさん入れた汁なべを囲んで、お酒を酌み交わしたりの、一種の野外パーティーのような様子だったらしい。
芋煮会は話しに聞いただけだったが、思い出してみるとプロテスタントの教会のころは、カトリックの教会よりも信者としての生活が教会と密接に結びついていたような記憶がある。正直な話、その時代の経験があったからカトリック教会でさまざまなことに出会ってもキリスト教の信仰から離れずにここまでこれたのだと思う。教会用語で言えば信者同士の交わりのおかげだ。
カトリック教会、中でも四谷のマンモス教会でも昔は信者も今ほど多くなかったからか、もう少し信者同士の付き合いもあったし、信徒と司祭の間も壁が低かったと思う。もっとも今は昔以上におかしな人も増え、うかつに人を迎えられないのも事実のようなので仕方がないのだろう。
しかし、年に最低二回は一日黙想会に参加していたし、教会の講座にも週に二回は通っていた。いまや聖書の集いにしか行っていないのとは大違いだ。若いころは会社と教会とアパートの三角点の中ですごしていたのがいつの間にか、教会も行けるときだけ行くようになり、毎日ミサにあずかっていたころには考えられない状況だ。
芋煮会の話は当方にとっては若いころを思い出させ、教会生活の現状を振り返らせることになったわけだ。