昔々、子供向けの物語で聞いた旧約聖書に出てくるサムソンさんは、力の強い英雄なんだけど、女性に弱くて悪女のデリラに騙されて目をつぶされてしまう、ちょっとお馬鹿な英雄のイメージがあるのだが、今日、久しぶりにまじめに聖書朗読を聞いていたら、思わずはっとさせられてしまった。今日の聖書はサムソンのお母さんのはなしだったのだが、結婚していてもいつまでたっても子供が生まれなかった不妊の女性だったお母さんに子供が生まれ、その子は、生まれる前から神様のものだった。
サムソンは大きな失敗もするけれど、もともとはお母さんのお腹の中にいたときから、神様に捧げられた人、選ばれた人だったのだ。サムソンの人生の失敗も全部ふくめて神様はこの人をご自分の道具として使われたのだ。サムソンの人生も新約のさきがけだったのだ。
日本人のこちらは旧約のナジル人のような特別な存在ではないけれど、でも生まれてきて生きていること自体は、やっぱりひとりひとり、何かの思し召しがあってこの世に生まれてきたのだと思うし、だとしたら何か自分に与えられた役目のようなものもあるはず。それがどういうものなのかわからなくても、生まれてきて生きているのは何か意味があるからだろうと改めて思う。
英雄サムソンでもデリラにだまされてひどい目にあったり、最期は自分の命もすててペリシテ人の神殿を打ち壊す、そんな人生全部ふくめて神様のものなのだ。としたら、もしかして我々のごく平凡でなんということもない人生でさえも、実は全部全部神様からのものなんじゃなかろうか。つまらない出来事のように思えることも深い部分では大きなことなのかもしれない。
うまく表現できないが、たぶんつまらないこととか、どうでもいいことというのはどこにもないのかもしれない。