「お化け長屋」 三遊亭圓生
今となっては遥か昔の話だが、若いころ初めて知り合いに連れられて行ったカトリックの修道会というのが、イエスの小さい姉妹の友愛会だった。今は埼玉県の入間宮寺に本拠も移転しているが、当時は千駄ヶ谷の駅にほど近い住宅の立ち並ぶ場所にある見かけも中身もほぼ民家がその修道院だった。
今と違って、山谷の労働者の中に入っていくシスターたちなんてきいたこともない、被差別の方たちと一緒に働いたり生活したりするなんて考えられない時代だ。海外に派遣されるにしてもアラスカだの、トンガだったかな、とにかくあまり聞いたこともない地域の名前が出てきた。着ている修道服は白でも黒でも茶色でもない、ブルー、作業着の色だ。被っているベールは売り子さんやお掃除のときの三角巾を長めにしたようなもの。今でこそ珍しくもないけれど、すごく斬新なというか質素というか粗末というか、まさに貧しさを生きるシスターらしい、服装だった。今は普段は丈の長い修道服よりブルーなら上着にスカートでもズボンでもよいようだが、当時は食堂のお皿洗いの仕事をしているシスターも、作業用は全く同じ形の服にベールを白い生地で作って職場の許可をもらってそれを着て働いていたのだ。十字架やロザリオもつけてだ。何しろなぜか一緒に数か月そのシスターと一緒に働く機会をいただいてずっと毎日見ていたのだから忘れはしない。
そのシスターはその後最後まで韓国で働いて向こうで亡くなった。マグダレナ・愛子さんとおっしゃる方だった。
とにかくそのこともきっかけで、その年のうちに改宗したのだから忘れるどころではない。ただ、こちらも中身が幼稚過ぎて、親やプロテスタントの知人が反対するとすぐ言いなりになって会と距離を置くようになったのだからお粗末な話だ。
あれから何十年たったのだろう。当時はイエスの小さい姉妹、小さい兄弟といってもまるで無名だった記憶がある。それどころかヨーロッパの貴族出身のイエズス会の司祭の方にはまるで相手にされない修道会だった。そういう時代だったのだ。
とにかく、そのころシャルル・ド・フコーの名前も知っている方は少なかったし、小さい姉妹や兄弟を知っている人も少なかったのだ。曽野綾子さんが書いてくださった頃からではないだろうか、多少は一般にも名前が広がっていったのは。
このシャルル・ド・フコーこそはカトリック教会の中でカトリックとイスラームの架け橋のような方だったのだと思う。この方の伝記は機会があればぜひ一読をお勧めしたい。人間はときに非常に大きく変わるものなのだ。飲んだくれの軍人が信仰に立ち戻ってトラピスト修道院に入り、それにも飽き足らず、砂漠の隠遁者になり、自分に信仰を取り戻すきっかけを与えてくれたイスラームの人々と一緒に生きながらカトリックの教えも伝える努力を続けて、最後は殺されてしまったのだ。
でも、このシャルル・ド・フコーの考え方に共鳴する人たちが動き始めると、いくつもも兄弟会や姉妹会の修道会が生まれて、その一つがイエスの小さい姉妹の友愛会だったわけだ。
パリの大規模テロ事件のあったあと、どうしてもシャルル・ド・フコーの名前を思い出さざるをえなかった。敵対し続けるだけなら最後には破滅しかないのだ。そうではなくて何とかして、シャルル・ド・フコーの望んだ世界、違う宗教、違う民族、違う国、でも、お互いに相手を友達として受け入れ一緒に生きていく道をさがさなくては。この世界の不条理、不平等、悲しみ、苦しみ、痛み、そんなものに負けない心の強さが必要なのだ。
自分が信者だからいうのではないけれど、キリスト教で言うと、それを可能にするには、やっぱり、信・望・愛の土台が必要なのだろう。何の力もないけれど、私にそんなことを教えてくれている、シャルル・ド・フコーと小さい姉妹たち、直接は関係していないけれど澤田神父様そのほかのどこかで関わってきている皆様方に感謝したい。
今と違って、山谷の労働者の中に入っていくシスターたちなんてきいたこともない、被差別の方たちと一緒に働いたり生活したりするなんて考えられない時代だ。海外に派遣されるにしてもアラスカだの、トンガだったかな、とにかくあまり聞いたこともない地域の名前が出てきた。着ている修道服は白でも黒でも茶色でもない、ブルー、作業着の色だ。被っているベールは売り子さんやお掃除のときの三角巾を長めにしたようなもの。今でこそ珍しくもないけれど、すごく斬新なというか質素というか粗末というか、まさに貧しさを生きるシスターらしい、服装だった。今は普段は丈の長い修道服よりブルーなら上着にスカートでもズボンでもよいようだが、当時は食堂のお皿洗いの仕事をしているシスターも、作業用は全く同じ形の服にベールを白い生地で作って職場の許可をもらってそれを着て働いていたのだ。十字架やロザリオもつけてだ。何しろなぜか一緒に数か月そのシスターと一緒に働く機会をいただいてずっと毎日見ていたのだから忘れはしない。
そのシスターはその後最後まで韓国で働いて向こうで亡くなった。マグダレナ・愛子さんとおっしゃる方だった。
とにかくそのこともきっかけで、その年のうちに改宗したのだから忘れるどころではない。ただ、こちらも中身が幼稚過ぎて、親やプロテスタントの知人が反対するとすぐ言いなりになって会と距離を置くようになったのだからお粗末な話だ。
あれから何十年たったのだろう。当時はイエスの小さい姉妹、小さい兄弟といってもまるで無名だった記憶がある。それどころかヨーロッパの貴族出身のイエズス会の司祭の方にはまるで相手にされない修道会だった。そういう時代だったのだ。
とにかく、そのころシャルル・ド・フコーの名前も知っている方は少なかったし、小さい姉妹や兄弟を知っている人も少なかったのだ。曽野綾子さんが書いてくださった頃からではないだろうか、多少は一般にも名前が広がっていったのは。
このシャルル・ド・フコーこそはカトリック教会の中でカトリックとイスラームの架け橋のような方だったのだと思う。この方の伝記は機会があればぜひ一読をお勧めしたい。人間はときに非常に大きく変わるものなのだ。飲んだくれの軍人が信仰に立ち戻ってトラピスト修道院に入り、それにも飽き足らず、砂漠の隠遁者になり、自分に信仰を取り戻すきっかけを与えてくれたイスラームの人々と一緒に生きながらカトリックの教えも伝える努力を続けて、最後は殺されてしまったのだ。
でも、このシャルル・ド・フコーの考え方に共鳴する人たちが動き始めると、いくつもも兄弟会や姉妹会の修道会が生まれて、その一つがイエスの小さい姉妹の友愛会だったわけだ。
パリの大規模テロ事件のあったあと、どうしてもシャルル・ド・フコーの名前を思い出さざるをえなかった。敵対し続けるだけなら最後には破滅しかないのだ。そうではなくて何とかして、シャルル・ド・フコーの望んだ世界、違う宗教、違う民族、違う国、でも、お互いに相手を友達として受け入れ一緒に生きていく道をさがさなくては。この世界の不条理、不平等、悲しみ、苦しみ、痛み、そんなものに負けない心の強さが必要なのだ。
自分が信者だからいうのではないけれど、キリスト教で言うと、それを可能にするには、やっぱり、信・望・愛の土台が必要なのだろう。何の力もないけれど、私にそんなことを教えてくれている、シャルル・ド・フコーと小さい姉妹たち、直接は関係していないけれど澤田神父様そのほかのどこかで関わってきている皆様方に感謝したい。