家族

2017-09-19 19:29:25 | Weblog
なんだかんだとすったもんだの末にようやく明後日の木曜日に、義母と私と弟の3人揃って船橋にある父母と妹の墓参りに行くことになった。母は私が高校3年の期末テストの最中に病状が悪化してあっという間にこの世を去って行ってしまったのだ。あれからほぼ50年が経った。しかし、子供にとって実の母親の死はなんといっても一番衝撃が大きい。後遺症も大きかった。

母がいないことで教わりそこなったこと、覚えはぐったこと、実はすごく沢山あって、実はいまだに人前に出るのには自信がもてないことだらけだ。でも、それでも時間は容赦なく過ぎて今や母の死んだときの年齢44歳をはるかに過ぎてしまった。母が生きていたら成人式の時も普通に振袖を着せてもらっていたはずだが、、男親では、それでも真珠の指輪を買ってくれただけましだったのかな。親不孝娘は真珠ではなくてルビーとかサファイアのような色石が欲しかったと文句ばかり言って、挙句の果てに友達にあげてしまったのだからひどい。当時の我が家はお金に困っていなかったから、欲しくもないものなどいらないと平気で人にあげていたのだ。今でも本当に欲しいもの以外はいらない、ほかのものは嫌だという気持ちはあまり変わらない。

父が今の義母と再婚してからの年月は子供たちは親元からそれぞれ出て生活をしていたから、実のところある日たまたまご機嫌伺に電話をかけて、義母が泣きながら父のガンの発病を伝えるまでかなりお互いに距離をおいていたのだ。そのころの父は仕事に失敗し、経済的にも昔のようにはいかなくなっていたところに追い打ちをかけられたようなものだ。

それから、親不孝娘でも否応もなく、義母と二人交代しながら病院に泊まり込みの付き添いをしていたのだ。妹はそのころ、父と不仲になっていて、全然顔を見せず、弟も男では役に立たず、かなり大変だった。その時の記録も「遠くの星」という物語に書いたのだが、ご立派な某イエズス会士に預けたら、なんと紛失したといわれてそれっきりだ。多分それは某元総理の手に渡ったはず。そのご当人も前立腺ガンの治療を受けていたし、さるお方がまた同じ御病気だった時で、どこかでお役に立ったのならまあ良しとするしかないが、娘としては自分の父親のために書いた物語が消えてしまったのはやはり悔しく悲しい。

そして結局父は苦しい闘病の甲斐もなく、喉のガンが顎に出てきて肉眼でもはっきり見えるようになり、ザトウクジラを連想させる状態で、何も食べられずやせ細っていって死んでしまった。ガンが分かった時すでに手遅れだったのだからどうにもならなかったのだ。

父の死から20年以上、妹もいなくなり、今や我が家はまるで空の巣だ。明後日の墓参りを前に昔の記憶を辿ってみたが、やっぱり、我が家の太陽だった父の存在の大きさが今にして思い出される。ホンダの文字を見ればいやでも父の記憶がよみがえる。あの時代が思い出されるのだ。