9月15日(金)ピーター・ゼルキン ピアノリサイタル
東京オペラシティホール:タケミツ・メモリアル
【曲目】
1.バッハ/コラール前奏曲「ただ愛する神の摂理にまかす者」BWV691
2.武満 徹/遮られない休息
3.武満 徹/ピアノ・ディスタンス
4.武満 徹/フォー・アウェイ
5.武満 徹/閉じた眼 ―瀧口修造の追憶に―
6.武満 徹/雨の樹 素描
7.武満 徹/リタニ
8.武満 徹/閉じた眼 Ⅱ
9.武満 徹/雨の樹素描 Ⅱ ―オリヴィエ・メシアンの追憶に―
10.バッハ/半音階的幻想曲とフーガ ニ短調BWV903
【アンコール】
1. バッハ/カプリッチョ変ロ長調 「最愛の兄の旅立ちにあたって」BWV 992
2.武満 徹/うたうだけ
武満のピアノ作品を中心に、その前後をバッハで挟むというプログラムからして既にゼルキンのこのリサイタルへの深い思いとヴィジョンが伝わってくる。その上、この日のピアノは平均律ではなくミーントーンで調律されているという。武満のクリスタルな響きはどうなってしまうのか少々不安があったが、演奏を聴いて、ゼルキンがなぜミーントーンを選んだかがはっきりとわかるようなリサイタルでもあった。
ゼルキンは武満のクリスタルな響きにではなく、もっと武満作品の奥底に潜む深遠さにスポットを当て、やはりバッハの音楽の持つ深い祈り、この祈りは純粋で敬虔な祈りというよりも、もっと人間のいろいろな感情が入り混じった祈り、そんなものにスポットを当て、250年もの時代の離れた音楽がお互いに共鳴し、人の心の深い所から呼び覚ますものの共通性を証明したかったのではないか。
最初のバッハのコラール前奏曲は、まさしくそうした「儀式」の始まりを告げるかのようにおごそかであり、かつ「痛み」を伴ったような演奏だった。
そして今夜のプログラムの大半を占める武満の作品が、きれいに作曲年代順に並べられる。実験的な要素をはらみ、ストイックでぎりぎりの境地に立ったような武満の初期から中期にかけての作品に、徐々にやわらかな光彩や空気が入り込み、歌が聞こえ始めてくる、という時代を追った変化は確かに伝わってくるが、逆にそうした外面的な変化にもかかわらず、音楽の背後に変わらず一貫して定旋律が鳴り続けていることをゼルキンは気づかせてくれた。
その定旋律はただ美しいものではなく、最初のバッハで聴いた「痛み」を伴った魂の静かな叫びのようなもの。これをミーントーンの調律によるハーモニーのある種の歪みが助長する。そして、今度はミーントーン特有のある時は温かな色彩を帯びた響きが、痛みを伴った定旋律を優しく包みこむようにその周囲を漂い、癒そうとする。
一連の武満作品の演奏が終わった後のバッハの「半音階的…」は、両者の音楽の共通性を浮かび上がらせると同時に、リサイタル全体が1つの大きな音楽であったかのようにバッハに回帰し、あたかもそこから再び武満が始まるかのような、始まりも終わりもない永遠性へと結びついているように感じたのは私だけか。
入念に組み立てられたプログラムの後に演奏された2曲のアンコールまで、この本ステージのプログラムと密接に結びついたもので、正真正銘最後の曲目となった武満の「うたうだけ」が、きっと武満がこの曲に込めた小洒落た「歌謡性」という次元を遥かに超越してしまったような、深遠の世界へと消えて行ったのだった。
東京オペラシティホール:タケミツ・メモリアル
【曲目】
1.バッハ/コラール前奏曲「ただ愛する神の摂理にまかす者」BWV691
2.武満 徹/遮られない休息
3.武満 徹/ピアノ・ディスタンス
4.武満 徹/フォー・アウェイ
5.武満 徹/閉じた眼 ―瀧口修造の追憶に―
6.武満 徹/雨の樹 素描
7.武満 徹/リタニ
8.武満 徹/閉じた眼 Ⅱ
9.武満 徹/雨の樹素描 Ⅱ ―オリヴィエ・メシアンの追憶に―
10.バッハ/半音階的幻想曲とフーガ ニ短調BWV903
【アンコール】
1. バッハ/カプリッチョ変ロ長調 「最愛の兄の旅立ちにあたって」BWV 992
2.武満 徹/うたうだけ
武満のピアノ作品を中心に、その前後をバッハで挟むというプログラムからして既にゼルキンのこのリサイタルへの深い思いとヴィジョンが伝わってくる。その上、この日のピアノは平均律ではなくミーントーンで調律されているという。武満のクリスタルな響きはどうなってしまうのか少々不安があったが、演奏を聴いて、ゼルキンがなぜミーントーンを選んだかがはっきりとわかるようなリサイタルでもあった。
ゼルキンは武満のクリスタルな響きにではなく、もっと武満作品の奥底に潜む深遠さにスポットを当て、やはりバッハの音楽の持つ深い祈り、この祈りは純粋で敬虔な祈りというよりも、もっと人間のいろいろな感情が入り混じった祈り、そんなものにスポットを当て、250年もの時代の離れた音楽がお互いに共鳴し、人の心の深い所から呼び覚ますものの共通性を証明したかったのではないか。
最初のバッハのコラール前奏曲は、まさしくそうした「儀式」の始まりを告げるかのようにおごそかであり、かつ「痛み」を伴ったような演奏だった。
そして今夜のプログラムの大半を占める武満の作品が、きれいに作曲年代順に並べられる。実験的な要素をはらみ、ストイックでぎりぎりの境地に立ったような武満の初期から中期にかけての作品に、徐々にやわらかな光彩や空気が入り込み、歌が聞こえ始めてくる、という時代を追った変化は確かに伝わってくるが、逆にそうした外面的な変化にもかかわらず、音楽の背後に変わらず一貫して定旋律が鳴り続けていることをゼルキンは気づかせてくれた。
その定旋律はただ美しいものではなく、最初のバッハで聴いた「痛み」を伴った魂の静かな叫びのようなもの。これをミーントーンの調律によるハーモニーのある種の歪みが助長する。そして、今度はミーントーン特有のある時は温かな色彩を帯びた響きが、痛みを伴った定旋律を優しく包みこむようにその周囲を漂い、癒そうとする。
一連の武満作品の演奏が終わった後のバッハの「半音階的…」は、両者の音楽の共通性を浮かび上がらせると同時に、リサイタル全体が1つの大きな音楽であったかのようにバッハに回帰し、あたかもそこから再び武満が始まるかのような、始まりも終わりもない永遠性へと結びついているように感じたのは私だけか。
入念に組み立てられたプログラムの後に演奏された2曲のアンコールまで、この本ステージのプログラムと密接に結びついたもので、正真正銘最後の曲目となった武満の「うたうだけ」が、きっと武満がこの曲に込めた小洒落た「歌謡性」という次元を遥かに超越してしまったような、深遠の世界へと消えて行ったのだった。
八ヶ岳にピーターゼルキンさんのリサイタルを聴きに行ってきた者です。
恥ずかしながら、音楽の専門的なことがわからないので、当方のブログにこちらの記事を紹介させていただけないでしょうか?
よろしくお願いいたします。
こちらの該当ページのURLのご紹介になってしまいますが、よろしくお願いします。
当方の記事の紹介(TBでしょうか?)など、とてもとても・・。
雰囲気だけの記事でお恥ずかしい限りです。
当夜はゼルキンさんのサインをいただくことができましたので、
その辺りも雰囲気だけですが、記事にしようと考えています。
ご恩をいただくばかりで申し訳ありません。
ありがとうございます。
pocknsan@mail.goo.ne.jp
かえってお手数をお掛けしてしまい、申し訳ありません。
当コメントの名前のところをクリックしていただければ、拙ブログへお越しいただけるようにさせていただきましたが、(1)~(3)まで作成した記事の、試しに(2)をTBさせていただきます。
こちらの記事も(2)に紹介させていただきました。
深謝です。