今日、何する? What will I do today?

過去の記憶に生きるのではなく、未来(明日)の思いに生きるのではなく、今日という現在を生きよう!

倫理的な思索の始まりをどこに置くか!

2018年03月09日 13時19分32秒 | なんじゃこりゃぁ~~~
倫理的な思索の始まりをどこに置くか?

さて、今日は、んっ? 今日も真面目な話題を
ということで、ソクラテスの「如何に生きるべきか?」について

考えてみましょう。



ソクラテスの問いとして「如何に生きるべきか?」という問い
「何か生きるか」ということには常に或る一定の目的があり、

そこでその目的を達成する為には、「如何に生きることがよいのか」、
という問いでは決してない。

たとえば、かの幸福というのも、それは生きているというそのこと自身の何か外側にあって、
われわれの生はそれを達成する為にあるという仕方で、われわれの生の目的となるものではない。

従って、繰り返して言えば、いま問題の問いは、何らかの目的を達成する為には
「如何に生きるべきか」ではなく、むしろ、端的に「如何に生きるべきか」を問うているのだ。

とここで人はおそらく反論するであろう。
「如何に生きるべきか」という問いは、なるほど、

幸福ということをその生自身の外側に目的として設定した上での問いではない。
しかし、幸福という事柄と「如何に生きるべきか」という問いとは次のような仕方で、

つまり、「如何なる生を生きることが、われわれにとって幸福な生となるのか」という仕方で、
密接につながっているのではないか。そしてそのような繋がりが無い所では、

「如何に生きるべきか」というのは、何か虚空を掴むような、
内実の無い空虚な問いとなるのではないか?と。

如何に生きるべきか?という問いが、「如何なる生を生きることが、
われわれにとって幸福な生となるのか」という問いに置き換えられるときに、

前者のもつ問の内容の空虚さが無くなるとされるならば、そのとき、
人は先ず幸福な生というのに常に何か実質的な内容をあらかじめ与えねばならないであろう。

つまり、「幸福な生とはかくかくしかじかの、生である」という了解の下で、
そのような生が実現されるためには、一体我々はどのような仕方で生きるべきかという問いが、

資源的に問われている場面で、われわれは、幸福な生とはかくかくしかじかの生である
という了解をすでにもっているのであろうか?

それは、否である。
なぜなら、われわれは「如何に生きるべきか」という問いを問うている時、

最小限に見積もっても、いったい幸福な生とはそもそもなんであるかという問いを、
合わせて問うているのだ。

すなわちこの場合、その幸福な生というのはまさに問いの内にあるものであって、
それは決して何らかの実質的な内容をすでに与えられているものでもなく、

またそれは容易に与えられてはならないのである。
であれば、ここでこう語ることが出来よう。われわれは、

今問題となっている問いの地平を、まずは万人の欲求しているものとしての

幸福な生というのを大原則としておき、そこからその幸福な生というのに何らかの内容規定を与えた上で、
そのような生は一体いかなる仕方で獲得されるのかという問題として捉え、

その結果、最初の「如何にして生きるべきか」という問いの持っている始原性を、
いわば覆い隠すことは、決して許されないのだ、と。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿