I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

トぅジ とうじのこたえ。

2024-12-26 | つれづれに よしなしコト
高いけやきの木を見あげる
こまかい枝々は空を透き 水のやうに揺れてる
断崖から海をのぞくやうだ
高い一本の欅を見上げ 私は地球だまに逆さにたつてゐる

                            「 欅 」 





言葉を カイする者は みな 
何某か の 創造ツクリ だな と つくづく思う

ブログを立ち上げて 8度目の師走

調べ事で 時々 昔の記事を み返す。
足掻いた痕跡を遺した いっぱい いっぱいの 言葉じぶんに 苦笑してしまう。

3年続けば それなりに
ひとかどのものに なれるだろうに
私は 今も昔も 大して 変わっていないように思える。 


ど う し ょ う も な い。

ひとは みな そのときの自分に
都合のいい 意味価値を得るため 読み書きするのだから。


dyutadyāmānam bṛhatīm ṛtena ṛtāvarīm aruṇapsuṃ vibhātīm |

devīm uṣasaṃ svar āvahantīm prati viprāso matibhir jarante ||


かけば かくほど 
言葉じぶんの 限界 が 見えてくる。
後退しているように 感じることも少なくない。

だが、いたらない自分自身の 思い知るからこそ、
そのいたらなさを 頼りに 私は ここまで 続けて来れた。 

限界があるから、
その限界を 超えたいと思得る、
超えられなくても 出来るところまで とことんやってみたい。

自分ことば の 限界を 知るからこそ 限界の先を 標榜できる 所在イチ に 立てる。


    「自分のなりたい 自分をつくる」 

      私のなかに 芽吹く たくさんの 可能性いのちとともに 
       わたしは 様々な自分 を いつくしみ育ててきた。


eṣā janaṃ darśatā bodhayantī sugān pathaḥ kṛṇvatī yāty agre |




   「み る。」

ヨウは 単純で 当り前の事を 徹底しているだけ。

わたしから 分かたれたものを 言葉カタ・チ
したため得る「なにか」は 私の 様態カラダ を テイした 「 言葉ナニか 」だ。


  In principio erat Verbum,
  et Verbum erat apud Deum,
  et Deus erat Verbum.
(Joannes 1:1)

   わたしは 言葉にあって 言葉にない「何か」


bṛhadrathā bṛhatī viśvaminvoṣā jyotir yacchaty agre ahnām ||


言葉は「わたし」ではない
「わたし」でなくなったシタイ、私という者の 言葉カラダ である。


 Dixitque Deus :
  Fiat lux. Et facta est lux.
(Genesis 1:3)


言葉の「私」をみる わたしは
このブログサイトに 訪れる者と変わらない 自分ナニか の言葉を

 カンショウできる立場にある 同じイチの 人間ワタシ でも ある。




サフランいろの冬のよふけ
橋の下で 乞食の子が
口笛でなにかうたつてゐる
月がそれにあはせて
ゆつくりあがつてゐる
乞食の子は
さむいよふけ
ひとり王子のやうな ふしぎなゆめをみてゐる

              「さむい月の出」 


10年前の師走
ある 下知センリツ が 下りた。大掃除の 真最中だった。

・・・・・・風に舞う ひの すゑうた




『 たくさんのワタシたち
  たくさんのアナタたち
  あなたをいろどる その空を  みる
 あなたのしんにふれるものは みな あわ雪のようにきえる 』


このブログの基である
2015年 ACIMレポートの原曲に あたる「うた」である。


・・・子供の頃 繰り返し みる夢があった。

 ひとの神
 ひとの魔の いきつく 全ての終わり、
 なにもない わたししかいない 真っ白の世界・・・



   ए॒षा गोभि॑ररु॒णेभि॑र्युजा॒नास्रे॑धन्ती र॒यिमप्रा॑यु चक्रे ।



かなしいも
かなしくないも「ない」 無間むげん 
のちびとが いたる アルファにして オメガの だ。


ひとは 神にも 魔にも たやすく成れる 自分ひとヒ で あるもの故に

    わ か っ て い る。

啓いた眼を 閉じ、私は 再び 其の自分を 眠らせた。

幼子には 扱えない 真実キョクケイ である。
まだ 私を 死なせるワケには いかなかった。

   おえていない。

生まれてからずっと 
自分の中にあった「なんでもいい」という
この「私」の かなしい 想いを 全うしてやりたかったから。



      प॒थो रद॑न्ती सुवि॒ताय॑ दे॒वी पु॑रुष्टु॒ता वि॒श्ववा॑रा॒ वि भा॑ति ॥


私は それ故 天国も 地獄も ふるさとも 棄てた。

神にも
魔にも なりたくない。
チに 縛られない 「何 か」 に なりたかった。

シりょくを落とし
心眼を閉じて 私を 生きて来た。
だが、もう そうもいかない「とき」が 来る。

我々の世界は この先 
より一層  二極化 を 強め 一の 究極チ に イかされる。

 もてるもの、もたざるもの
 神に愛されるもの、愛されぬもの
 いきるもの、いきられぬもの・・・・・・

かち組にある イチのもの
かち組から 外れた ニのもの どちらも 等しく 抹消される。




神あっての「魔」であり
魔あっての「神」が 成り立つ
 
現象 の  ホメオスタシスによる「ち」の 浄化 だ。


この世界は「光」と「闇」を ひとしく 要する コトのバ である 。

カチなき 神や 魔 同様に 
神にも 魔にもなれない ムシの人間
おのれをいきぬ ヨイ人間は もう存在が 許さない。排除されるだろう。


  何故 いまここにいる「自分」か、 貴方は
  何ユエ の「自分」か 自身に 問い向け得る自分しん であるかな 

「人類が 存続するようなら 禅が流行し、
 人類が 滅亡するようなら クンダリーニ・ヨーガが流行する」
と いう 覚醒者がいた。


   
  ए॒षा व्ये॑नी भवति द्वि॒बर्हा॑ आविष्कृण्वा॒ना त॒न्वं॑ पु॒रस्ता॑त् ।


ネット上の スピ・精神世界の人間に 私は

「人生と 存在全体に
 対する 内発的な根本的疑問」
を いきている 自分ぜん を まず みない。


全てを 等価とし、 ひとのイイに 同化して、 神仏と 合一、
ナニかと すぐ 一体化したがる  法悦クンダリーニ耽溺するような アイヨクの 色情者ばかり。

      「ち」に 執着する 反知性の「チ」者 である。

      しんの禅者、
      もしくは その雲水であるならば 
      所作、言動に 透徹した 理智性 を 反映する 「大疑団」 を ともに

  「古池や蛙飛びこむ水の音」を いきている  空 明シぜん の 人間だ。




高い欅の梢に星のありながら ぱらぱらとゆく通り雨
水鶏くひながないてゐる
明日の運動会をたのしみに すやすやと無心に
眠つてゐる子供等の寝顔
その枕辺近く 父と母とはゆたかならざる家計を語つてゐた

                         「 家 」 


かの覚醒者の弟子は
クンダリーニ・ヨーガを 行っていたひとだが、現在は 止めている。

地球に生じている ある変動 が 影響しているらしい

身体から 離れようとする 魂を留めるべく、
ゲンザイ 制御不能にある クンダリーニと 懸命に 戦っている。


     
     ऋ॒तस्य॒ पन्था॒मन्वे॑ति सा॒धु प्र॑जान॒तीव॒ न दिशो॑ मिनाति ॥


このまま 「チ」に 引きずられて 
体外離脱してしまえば、覚醒、解脱はおろか ニルヴァーナも かなわない。

魔境どころではない次元に 堕ちてしまうだろう。


禅も修めていた 師は 
この事態を予見したが 故に 神人合一、絶対自己
実存回帰ワンネス に 到る クンダリーニ・ヨガの教えを 取り止めたと 思料する。


世紀末前の師走 絶食状態で 座禅を組んだまま 彼は 遷化したと聞く。

のちに 続く者のため、 己じしんを 「公案」 と なさったか

「何で生まれてきたの」という問いに
 「愛を表現しに生まれてきた」と 即答したという

 私は 彼のひとの 詩歌ことば を 愛している。






確たる「ち」が「ち」でなくなる時節に入った。

善は悪に
悪は善に 即、翻る。
「風の時代」とは よくいったものだ。

各々が 各々の せいかくな 「いち」 を 各々自身で 選択 しなければならない。

斯様な 現状下、仮想現実空間オオヤケの場で 

神人合一、ワンネスなる者や 
個人の自立などと クチはばったいイイを 繰り返せる

善きニンゲンらと
あい連なり、番い、共有、
一体化すれば 神だろうと 魔であろうと 先はない

「し」が「し」でなくなる ムゲン「シ」を 招くだろう。


   
eṣā śubhrā na tanvo vidānordhveva snātī dṛśaye no asthāt |


ヨイもののイイが 命取りとなる。

   それ故 ネット上の
   「よい」スピリチュアル・精神世界の者らと 

    私は 積極的に 関わる事を 避けた。

   わたしは まだ  この「私」 を 必要としている。


私には 3万人を超える 人の生活を 護る務めが ある。
苦楽を 共に出来る たいせつな人たちと 「わたし」は 生きている。

  まだ 死ねない。まだ 生きたい。


    
apa dveṣo bādhamānā tamāṃsy uṣā divo duhitā jyotiṣāgāt ||


スピリチュアル・精神世界に関わる 
我々は 輪廻転生する事すら 許されない 

Agnus Deiイケニエ 抹消対象の最上位に あると 私は 観ている。

それ故の 「さ よ う な ら」 だ。

Salvation is undoing in the sense that it does nothing,
failing to support the world of dreams and malice. Thus it lets illusions go.
By not supporting them, it merely lets them quietly go down to dust.
And what they hid is now revealed.
(W- pⅡ.2.3.2:4)



      「 ア リ 難 う」

       シン・アイなるトモよ 。

  『 私の世界は
   やさしいため息をついて
   音もたてず ひっそり 閉じられる 』


     ・・・・・・そう。 こんな風に・・・・・、ね。



AURORA 「 The Seed 」





eṣā pratīcī duhitā divo nṝn yoṣeva bhadrā ni riṇīte apsaḥ |
vyūrṇvatī dāśuṣe vāryāṇi punar jyotir yuvatiḥ pūrvathākaḥ ||




※文中の緑字は 田中 冬二とうじ の詩。笑
赤字のサンスクリット語は 「Rig Veda」より☼