繋がぬ沖の捨小舟
生死の苦海果てもなし
生死の苦海果てもなし
石牟礼道子
2015年次 私の ACIMの課題に
「のさり」というレポートがある。
水俣病患者と ともに生きた作家
「石牟礼道子」彼女にならって かいたものだ。
石牟礼さんが どういうひとなのか
くどくど説明するより
じっさい 彼女の言葉に ふれてみれば わかる。
「のさり」というレポートがある。
水俣病患者と ともに生きた作家
「石牟礼道子」彼女にならって かいたものだ。
石牟礼さんが どういうひとなのか
くどくど説明するより
じっさい 彼女の言葉に ふれてみれば わかる。
水俣病の子をもつ 母のはなしである
きよ子は 手も足もよじれてきて、
手足が 縄のようによじれて、わが身を 縛っておりましたが、見るのも辛うして。
それが あなた、
死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に。
私がちょっと留守をしとりましたら、
縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面に 這うとりましたですよ。
たまがって 駆け寄りましたら、
かなわん指で、
桜の花びらば 拾おうとしよりましたです。
曲った指で
地面ににじりつけて、
肘から血ぃ出して、
「おかしゃん、はなば」ちゅうて、
花びらば 指すとですもんね。
花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
かなわん指で、
桜の花びらば 拾おうとしよりましたです。
曲った指で
地面ににじりつけて、
肘から血ぃ出して、
「おかしゃん、はなば」ちゅうて、
花びらば 指すとですもんね。
花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
何の恨みも 言わじゃった 嫁入り前の娘が、
たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。
それで あなたにお願いですが、
文 ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。
いや、世間の方々に。
桜の時期に、花びらば一枚、
きよ子のかわりに、拾うてやっては 下さいませんでしょうか。
花の供養に
「花の文を― 寄る辺なき魂の祈り」中央公論 2013年1月号
たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。
それで あなたにお願いですが、
いや、世間の方々に。
桜の時期に、花びらば一枚、
きよ子のかわりに、拾うてやっては 下さいませんでしょうか。
花の供養に
「花の文を― 寄る辺なき魂の祈り」中央公論 2013年1月号
Hurrian Hymn No. 6 (Oldest Known Melody – circa 1400 BC)
石牟礼さんは
きよ子さんのご家族と 面識があった。
だが きよ子さん ご本人とは 会っていない。
私は きよ子さんのご家族 きよ子さん ご本人はおろか
石牟礼さんと 会ったことすらない。
石牟礼さんの書いた
「きよ子」 きよ子の「母」
私が ここに記す
この「石牟礼道子」は いったい 何 のいいであろう?
「共有だ」 「癒しだ」 「赦しだ」
「じぶんの 想いの投影だ」という
かんじているものを うまく解して 分かる
達意から
善意から
言葉にする、言葉にできるようなものなど
石牟礼さんご本人は
たいして お持ちではなかっただろう。
彼女に あったのは
病に もだえ くるしみ
しんでいく患者たちの つよい いきたいという 「願い」
「じぶんの 想いの投影だ」という
かんじているものを うまく解して 分かる
達意から
善意から
言葉にする、言葉にできるようなものなど
石牟礼さんご本人は
たいして お持ちではなかっただろう。
彼女に あったのは
病に もだえ くるしみ
しんでいく患者たちの つよい いきたいという 「願い」
病に対する 世間の 無知による差別
つめたい誹謗中傷に耐えていきる
患者家族たちの つよい かなしい 「嘆き」
なにより
拡張し続ける 社会の
光かがやく 未来繁栄がため
彼女のたいせつな ふるさと
そのふるさとに いきるひとたちの生が
侵され
穢され
生けにえに されたことへの
彼女の つよい つよい かなしみの想念 だ。
つめたい誹謗中傷に耐えていきる
患者家族たちの つよい かなしい 「嘆き」
なにより
拡張し続ける 社会の
光かがやく 未来繁栄がため
彼女のたいせつな ふるさと
そのふるさとに いきるひとたちの生が
侵され
穢され
生けにえに されたことへの
彼女の つよい つよい かなしみの
Billy Holiday : Strange fruit【奇妙な果実】
彼女は 目を反らすことなく
まっすぐ 見つづけて 書いた
彼女は みたのだ。
ふかい闇
ふかい業に いきざるを得ない ひとのかなしみを
いっしんに。
彼女は 書くことで
ひとり このかなしみを 生じさせる
得体の知れない 「ナニか」と 闘いつづけ
書いて 書いて 書いて 生き抜いたひとだった。
まっすぐ 見つづけて 書いた
彼女は みたのだ。
ふかい闇
ふかい業に いきざるを得ない ひとのかなしみを
いっしんに。
彼女は 書くことで
ひとり このかなしみを 生じさせる
得体の知れない 「ナニか」と 闘いつづけ
書いて 書いて 書いて 生き抜いたひとだった。
ほんの一時期
私は スピリチュアルに 専心し
他のひとたちと みつに 関わった時期がある。
・・・無残であった。
じぶんの大切に 想うものが
無様にも
無知からくる 傲慢な善意から
ひとつの奇怪な すべての「神」に のまれた。
無情にも
経験知による 賢しらな 万能感から
私は スピリチュアルに 専心し
他のひとたちと みつに 関わった時期がある。
・・・無残であった。
じぶんの大切に 想うものが
無様にも
無知からくる 傲慢な善意から
ひとつの奇怪な すべての「神」に のまれた。
無情にも
経験知による 賢しらな 万能感から
わかち得る奇態な 絶対性に「全て」 約められる
そのよきザマに 私は
彼らと「同じ」 全き光の せいなる御子 として 立ち合う
無 行 に あ っ た・・・・・・
愛を嘉し
シェアに 悦ぶ
「我らは無辜」
「われらはみな ひとつ」声高らかに たがいを 結え
全一性 の よき情景に 白々よく映える よく出来たセイト
ヨイ私は ソレゆえに
そこに 居合わさねばならない自分 であった。
彼らと「同じ」 全き光の せいなる
無 行 に あ っ た・・・・・・
愛を嘉し
シェアに 悦ぶ
「我らは無辜」
「われらはみな ひとつ」声高らかに たがいを 結え
ヨイ私は ソレゆえに
そこに 居合わさねばならない
せいなるひとたちは
神の名において すべての「ま」
すべての くらがみを すべて糾弾しうる まことの ちからを 望む
全き光の せいなる御子様である 。
望みどおりの 彼らの神 話 を ココによみがえらせる為
いけない くらがみの自 我 を 故に たっぷりと 欲する
此処は やみなくば 光は 「ない」 ところだ。
せいなるひとの「すべて」よいに かなう
たくさんの辜 びとが 彼らの 自我 に されるだろう
せいなるひとたちは 消費し、喰い尽す。「すべて」故
くらがみのものらの 声なき 悲痛の叫びすら 喰い漁った。
神の名において すべての「ま」
すべての くらがみを すべて糾弾しうる まことの ちからを 望む
望みどおりの 彼らの
いけない くらがみの
此処は やみなくば 光は 「ない」 ところだ。
せいなるひとの「すべて」よいに かなう
たくさんの
せいなるひとたちは 消費し、喰い尽す。「すべて」故
くらがみのものらの 声なき 悲痛の叫びすら 喰い漁った。
たくさんの せいなるひとたちと 共有され
膨張してイク
殖えてユク 彼らの せいなる
果たして
しんじつ その「私」は せいなる
なぜ「私」は 自我を 見るのか。
なぜ「私」は 真我が 分かるのか。
な ぜ?
(ワタシ)
(わたし)
そういう この「私」は
いったい 「何」だ?
(ワタシ)
(わたし)
そういう この「私」は
いったい 「何」だ?
カナシイ
ひとつじゃ わからない
かなしい
おかしい
おろかしい
おなじじゃ 何も わかれないよ
か な し い
こんな「しい」は もう
ひとつじゃ わからない
かなしい
おかしい
おろかしい
おなじじゃ 何も わかれないよ
か な し い
こんな「しい」は もう
「い や だ」
未来古代楽団「忘れじの言の葉 」ft. 安次嶺希和子
ナニゆえの 「せい」だろう
ナニゆえの 「いい」なのだ?
よいごとを用いて
我が世界ナルものを すべて断じられる その「善」とは 何であろう
う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。
案じ、加え、て聴いて、はいよ。
知っていればよいだけ無難も
神人合一 思考を超えるだの
ニルヴァーナ アセンションだの
思想も真実も 神も仏も
よく作られ得るひとの いいコトワリなんぞ
わたしは 「いらぬ」
ナニゆえの 「いい」なのだ?
よいごとを用いて
我が世界ナルものを すべて断じられる その「善」とは 何であろう
う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。
案じ、加え、て聴いて、はいよ。
知っていればよいだけ無難も
神人合一 思考を超えるだの
ニルヴァーナ アセンションだの
思想も真実も 神も仏も
よく作られ得るひとの いいコトワリなんぞ
わたしは 「いらぬ」
ナニゆえの 「スピリチュアル」「精神世界」であるか
ナニゆえの 「悟り」「覚醒」であり 「求道」「冥想」だ?
ナニゆえ おのれの良心を ひけらかす せいなる自分様か
まぼろし ふかくして 一期の闇のなかなりし
ひとも われもいのちの臨終 かくばかり かなしきゆえに
けむり立つ雪炎の海を ゆくごとくなれど
われより ふかく死なんとする 鳥の眸 に 遭えり
すべての思考を 赦し
愛するときに 執心する 「主」語のない ゼンニンらの非道の一切
私は のぞまない
ソコへは 「ゆかぬ」
ナニゆえの 「悟り」「覚醒」であり 「求道」「冥想」だ?
ナニゆえ おのれの良心を ひけらかす せいなる自分様か
まぼろし ふかくして 一期の闇のなかなりし
ひとも われもいのちの
けむり立つ雪炎の海を ゆくごとくなれど
われより ふかく死なんとする 鳥の
すべての思考を 赦し
愛するときに 執心する 「主」語のない ゼンニンらの非道の一切
私は のぞまない
ソコへは 「ゆかぬ」
杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、
ひと一倍、魂の深か子でござす。
耳だけが 助かってほげとります。何でも ききわけますと。
ききわけは でくるが、自分が 語るちゅうこた できまっせん。
くらがみのものに 宿りし かそけき想いを
この胸に たいを開き 私は 彼らの声となろう
この私 に
「せい」なる 称号は のぞまぬ
「ぜん」なる 肩書きなど いらん
わたくしに まったき神も その神話、神示も 教えも 必要ない。
ひと一倍、魂の深か子でござす。
耳だけが 助かってほげとります。何でも ききわけますと。
ききわけは でくるが、自分が 語るちゅうこた できまっせん。
くらがみのものに 宿りし かそけき想いを
この胸に たいを開き 私は 彼らの声となろう
この
「せい」なる 称号は のぞまぬ
「ぜん」なる 肩書きなど いらん
わたくしに まったき神も その神話、神示も 教えも 必要ない。
よきことのバに つかれし しろき想いに
よらず しんを披く ひの言葉が いのちの謌 となればよい。
よらず しんを披く ひの言葉が いのちの
【追悼】フジコ・ヘミング「トロイメライ(子供の情景 作品15 ~ 第7曲)/ シューマン」
なむあみだぶつさえ となえとれば、
ほとけさまの きっと極楽浄土につれていって、
この世の苦労は ぜんぶ
わしども夫婦は、なむあみだぶつ 唱えはするが
この世に、この杢を うっちょいて、
自分どもだけ、極楽につれていたてもらうわけにゃ、ゆかんとでござす。
わしゃ、つろうござす。
病に くるしむひとたちと
ともに 筆舌に尽くしがたい 苦海に生き
ゆらぎ もだえ ふるえる
ふかい魂の想いを 顕す声となった 石牟礼さんの言葉には
彼女の愛する けがれない豊饒な 不知火の海、「わたつみ」が あった。
生者も 亡者も 光も 闇も ひとしく 包み込む 「ゆるし」が あった。
生者も 亡者も 光も 闇も ひとしく 包み込む 「ゆるし」が あった。
わかるかい 杢。
お前や そのよな体して 生まれてきたが、
魂だけが、そこらわたりの子どもと くらぶれば、
天と地のごつ お前の魂のほうが ずんと深かわい。
泣くな杢。 爺やんのほうが 泣こうごたる。
お前や そのよな体して 生まれてきたが、
魂だけが、そこらわたりの子どもと くらぶれば、
天と地のごつ お前の魂のほうが ずんと深かわい。
泣くな杢。 爺やんのほうが 泣こうごたる。
彼女の かなしい 想念 に ふれるとき
私は じぶんの どこか ふかい胎内から
なつかしく いとおしい うしおの香が たちのぼる
私を やさしくなぜる
忘れていた 「ひ」の ぬくもりを はっきりと かんじる
あなた。
あなたは いつも そこへ おいでなさるのですね。
私は じぶんの どこか ふかい胎内から
なつかしく いとおしい うしおの香が たちのぼる
私を やさしくなぜる
忘れていた 「ひ」の ぬくもりを はっきりと かんじる
あなた。
あなたは いつも そこへ おいでなさるのですね。
本文は エセー「ふたりの巫(かんなぎ)② ~情のbardo」(2018-3-4 公開:現在クローズ)の一部を 加筆編集
青字は 石牟礼道子 「苦海浄土」(講談社文庫)からです♡